ジョージ・メレディス「喜劇論」


「エゴイスト」の著者によるコミック論(相良徳三訳、岩波文庫)。「エゴイスト」の序文に肉づけして例証を入れながら引き延ばしたようなエッセイ。意外とベルクソンのコミック論に近くて驚いた。

どういう点がベルクソンに近いかといえば、笑い(あるいはコミック)というものを、社会の、社会による、社会のための矯正として捉えている点。この場合の矯正とは、曲がっているものをまっすぐにし、こわばったものをしなやかにするということ。笑いをそういう社会的な面から考察するかぎり、喜劇というものはどうしても社交と結びつかざるをえない。そして、喜劇が社交と不可分であるならば、いわゆるハイ・コメディはハイ・ソサイエティからしか生まれない。

そういうメレディスの考えるハイソな喜劇の代表がモリエールの「人間嫌い」である。メレディスのこの劇に対する入れこみようは半端ではなく、こういうものを生み出したフランスの上流階級を手放しで称賛している。この芝居はかつて岩波文庫の「孤客」という本で読んだことがあるが、どこがおもしろいのかさっぱりわからなかった。まあ、メレディスがそこまで褒めるのだから、もういっぺん読みなおしてみてもいいだろう。

モリエールと並んでおおきく扱われているのが古代のアリストファネスだ。この部分はアリストテレスの失われた喜劇論の代りとしても読める。けっきょくのところ、悲劇と対置された喜劇というものは、いうなればベートーヴェンに対するモーツァルトのようなものではないかと思う。ひどく感覚的な理解だが、これがいちばん真相に近いのではないか。

悲劇といっても悲惨な結末に終るとはかぎらないし、喜劇もつねにハッピーエンドとはかぎらない。両者の区別は対象と同化するか、あるいは突き放して見るかの違いにすぎない。主情的か主知的か。そこに悲劇と喜劇との違いがある。

これは人間のタイプにも置きかえられるだろう。悲劇的人間と喜劇的人間と。この両者を高度に兼ね備えた作家として、シェイクスピアがあげられる。

シェイクスピアの実在が疑われるのも、こういう相反する二面性を同一人物がみごとに体現しているという例外的な事情によるものではないだろうか。

メレディスアリストファネスについて書いている次の文は、シェイクスピアにいっそうよく当てはまるように思う。いわく、「彼は多くの人々の総和であり、さまざまな偉大さの合計である」と。


(追記、6/7)
モリエールを読みなおそうと思って書棚をさがしたが、どこかへやってしまったらしく見つからない。そのかわりアリストファネスの訳本がぞろぞろ出てきた。こんなにもっていたのかと自分でもちょっとびっくりする。そのうち固め読みするつもり。

それと、ギリシャ語で笑いのことをgelasma(ゲラスマ)というらしい。動詞はgelao(ゲラオー)。こういうのは記憶のわるい人でもすぐにおぼえられる。