和辻哲郎「風土」


昭和10年の刊行以来、こんにちまで読まれつづけている名著(岩波文庫)。あまりに名高いので感想を書くのもはばかられるが、巻末の解説(井上光貞)によると、批判も少なくないらしい。たしかに学術書としては、著者の個人的体験が前面に出すぎているかもしれない。しかし、この本のおもしろさの大部分は、そういった和辻の個人的体験の拡大、敷衍にある。いちおう日本文化史に分類されることが多いと思うが、この本は和辻という稀有の知性による海外見聞録、ありていにいえば旅行記として出色のできばえだと思う。

この本に読後感がいちばん近いのは、意外に思われるかもしれないが、ゲーテの「イタリア紀行」だった。ただし、ゲーテがイタリアの「自然」に着目したとすれば、和辻は諸国の「風土」を問題にする。「自然」と「風土」、どちらも環境であるということで共通しているが、和辻によれば、前者はあくまでも人間とは切り離された客観であって、いわゆる自然科学の対象になるものであるのに対し、後者は人間の存在と不可分の、いわば主観としての環境であって、しいていえば現象学的アプローチによって解明されるべきもの、ということになる。その意味で、風土とは空間化された歴史にほかならない。

著者は風土をおおまかにモンスーン型、沙漠型、牧場(ぼくじょう、ではなく、まきばと読むらしい)型にわける。で、それぞれに対応するのが東洋、中近東、西洋ということになる。それではアフリカは、アメリカは、オーストラリアは? となってくるが、著者は基本的に自分の目でみた土地のことしか語らない。和辻はインド洋を渡ってアラビア経由でヨーロッパへ行っただけなのだから、アフリカその他の国が無視されていてもなんのふしぎもない。

こういういくつかの型を設定して、それぞれに応じた特色を記述するというのは、いわば血液型占いみたいなもので、当っているような気もするし、はずれているような気もする。和辻は占い師ほどではないけれども、記述の根拠はこれをもっぱら自己の詩人的な想像力(創造力?)に置いている。ここが私には非常におもしろいところで、この本がこんにちでも命脈を保っているとすれば、その理由によるほかない。

たとえば彼の想像的な目を通してみたギリシャはどうだろうか。牧歌的な環境をすてて、海賊になって各地に植民地をつくってまわる古代ギリシャ人。ホメーロス叙事詩に歌われた世界ではあるが、しかし「イーリアス」や「オデュッセイア」を審美的に読むだけではわからない古代ギリシャ人の生々しい姿が和辻の麗筆によって活写される。またある人をして「ギリシャには影がない」といわしめた、ギリシャの永遠の白昼。そこでは「見る」ことはすなわち理解することであり、エイドス(形相)はそのままイデアなのである。

著者はまた沙漠的風土に生まれた信仰(ユダヤ教キリスト教イスラム教)について語りながらこういう、「歴史的に見れば、あの小さいイスラエルの族──その最盛期においても国土は長さ五十里、幅三十里乃至十五里に過ぎなかったあの民族──の歴史を、あたかも人類全体の歴史であるかのごとくに、ほとんど二千年の間ヨーロッパ人に思い込ませていたあの力ほどめざましいものはないであろう」と。この短い記述も、私にとっては啓示以外のなにものでもない。

かつて彼の「鎖国」を読んだとき、この本は自信をなくしていた戦後の日本人を慰め、力づけるために書かれたのではないか、と思った。今回読んだ「風土」はどうだろうか。昭和10年といえば、軍国色がすでにかなり強まっていた時期だ。そんななかで、読みようによっては天皇イデオロギー擁護の書とも取られかねない本書を書いた著者の意図は那辺にあったか?

しかし、そんなことは私にどうでもいいことだ。というのも、私にとってこの本のなかで唯一退屈だったのが、日本の風土に関する部分だったのだから*1

*1:もちろん、退屈しながらもおもしろく読まれたが