日常の中の非日常


外での仕事を終えて会社に戻ってみると、オフィスがみごとに整理されていて、いつもは書類でいっぱいの私の机にはなにもなく、その机がいくつか一箇所に集められて、上にテーブルクロスがかかっている。会議か、あるいはなにかべつの用事のためにオフィスを片づけたらしい。その会議はおそらくは長引くのだろう。まわりをみると、だれもいないかと思われたオフィスの一部で数人が仮眠を取ろうと横になっている。私はなんとなく彼らに話しかけるのをためらった。彼らはいずれもひどくぼんやりと見え、さっきまで明るかったオフィスの照明が急に暗くなったように感じられた。

もう帰ろう、と思って隣のオフィスを通りぬけると、そこもまたもぬけの殻のように人の気配はほとんどなく、いよいよ会社も終焉に近づいたことを思わせる。出口近くで二人が机に向って仕事をしているらしいのを確認する。彼らは二人ともフランシス・ベーコンの絵のようにアモルフで白っぽけた様子をしている。彼らに見つからないようにしながら退社。

外に出ると、そこに一人の女の子がなにかを手にもって立っていた。年は小学校の低学年くらいだった。その子は手にもっていたものを私の前に突き出して、これをあげるという。見ると、寄木細工みたいな入れ物にはいった和菓子かなにかだった。私はそれを見て笑った。するとその子も嬉しそうに笑った。

近くに猫が何匹かうろついていて、どうも餌の取り合いをしているらしかった。そのうち、ボス猫らしいやつが餌をひとり占めした。女の子はその猫の頭をなでてやろうと手をのばしたが、餌を食い終わった猫は一目散に逃げていった。私はその子となにか話をしながら、とうとう自分の家まで来てしまった。

家にあがると、その子は私の部屋までついてきた。なんと無防備な、と思いながらも、そんな気軽なところがちょっと気に入った。部屋に入ってからの会話はよくおぼえていない。おぼえているのは、その子のいった二言三言が妙に私のカンにさわったことだ。私は女性と長時間話をしていると、いつもこういった経験をする。それは私が自分の男性性に自信がもてないからだろうか。こんな幼い子供が相手でも、やはり女は女だけのことはある。

そのうちその子が部屋から出ていった。しばらくたっても戻ってこないので、さてはうちに帰ったんだな、と思って部屋を出てみると、玄関近くにあるソファの上に、その子のものとおぼしい手提げカバンがおいてある。まだ帰っていないとすると、いったいどこへ行ったのか。もしかして、子供らしい好奇心にかられて、私の家をあちこち探検してまわっているのではないか。

もうあたりはすっかり暗くなって、明かりをつけないともののかたちもはっきり見えなくなっていた。その暗いトイレの扉ががらがらと開いて、なかから女の子が出てきた。トイレに行くんなら一言くらいいえばいいのに、と思いながら、まあ小さい子だから仕方ないか、それにしても、見知らぬ男の家にあがりこんで、もしおれが変質者だったらどんなこわい思いをさせられるか知れたものではないのに、とその子のことが少し心配になってきた。

私は一人で二階にあがり、机に向かってぼんやりしていると、そこへ弟がやってきた。弟はちょっと用事で来たらしく、しばらくしてからそそくさと帰り支度をはじめた。弟は階段を降りていって、下でさっきの女の子となにか話をしているらしい。そのうち話し声がやんだかと思うと、女の子が上にあがってきた。私が「もう帰るの?」ときくと、その子は私に飛びついて、「これ、あげるっていったでしょ」と叫んだ。なにかと思えば、出会ったとき手にもっていた和菓子の入ったポリ袋だった。「ありがとう、おれなんかにはもったいないよ」と私がいうと、その子は私に抱きついた。そのしぐさがあまりにかわいかったので、キスしてやろうと顔を近づけると、いやなのか顔をそむけて泣き出しそうな様子をした。まずいことをしたかな、と思うまもなく、今度はその子がこういった、「キスくらいしてくれたっていいでしょ!」

私はその子の口にキスしてやった。彼女も私の頬にいくつかキスしてくれた。手にはあの和菓子の袋をしっかりと握ったまま。