丸型時計と砂時計、つけたり詩と哲学

sbiaco2008-03-21



ボードレールは時間の脅威を時計に託して歌った。ここで彼が念頭においているのはチクタクと時をきざむふつうの時計。その針や音が彼には脅迫的なものに思われたらしい。

しかしふつうの時計はいうまでもなくそんなにこわいものではない。それは時間を円環的に示すのみで、真におそるべき直線的な時間の脅威はそこでは隠蔽されている。

わたしが脅威的に思うのは、むしろ砂時計だ。これほど時間の有限性と不可逆性とを露骨に示すものはない。

ひとは生まれながらにして体内に一個の砂時計をもっている。その大きさと砂の量は個人によって違うが、いずれも生れ落ちたときにさかさまにセットされ、あとは当人が死ぬまでその砂は落ちつづける。そして砂が落ちきったとき、ひとつの人生がおわる。

砂時計をみていると、砂が半分落ちるまではずいぶん長いような気がする。その長さはほとんど永遠かと思うほどだ。しかし半分をすぎるや、今度は加速度がついたかのように速くなる。とても前半と同じ時間が経過しているとは思えない。

人間の砂時計もちょうどそんなふうになっているのではないだろうか。


……というようなことを詩に書いてみようと思ったのだが、どうもうまく書けない。ここで前にちょっとほのめかした、詩を書くうえでの障害について書いておこう。

それは詩はあくまでも感性を主体にしたものであって、そこに理屈が加わるととたんに味気ないものになる、ということだ。おおげさにいえば、詩を書くうえで思弁的、哲学的な心術はじゃまになりこそすれ、プラスにはたらくことはほとんどないと思う。

古来、学匠詩人とか詩人哲人がまれなのは、詩というものの本質上、あたりまえのことなので、詩にもちこまれた哲学ほどひとをうんざりさせるものはない。

ところで、そのまれな詩人哲人の書いた詩論がある。フリードリヒ・フォン・シラーの「素朴文学と情感文学」がそれだ。これはだいぶ前に読了して、感想を書こうと思いながらどうも気乗りがしなかったもの。感想なんか書くひまがあったらもう一度読みなおしたほうがいいのではないか、という内心の声もある。


(追記、3/23)
砂時計はルネサンス絵画などでは「時間」のアレゴリーとして死神のアトリビュートのかたちで描かれている。ボードレールはそれをふまえたうえで、近代的なアレゴリーとして「時計」をもちだしたんだと思われる。このように彼の近代性にはつねにアレゴリーがつきまとう。そのことも彼の魅力のひとつか。

なお、砂時計についてはエルンスト・ユンガーに「砂時計の書」というのがある。