「小さな悪の華」

sbiaco2008-02-23



ちょっと前から気になっていたのをやっと見た(ジョエル・セリア監督、1970年、フランス)。これはすばらしい。名作というにはほど遠いが、なんというか私の嗜好にみごとにはまる。原題はMais ne nous delivrez pas du mal(私たちを悪から解き放ちたもうな)。

この映画はニュージーランドでじっさいに起った少女二人による母親殺しに想を得て作られたらしいが、私の見るところではやはりジョルジュ・バタイユの「眼球譚(目玉の話)」を骨子にしていると思われる。映画のアンヌは小説のシモーヌ、ロールはマルセルに相当する。ただしこの映画ではバタイユの小説の語り手、つまり情痴関係にある男は不在だ。ここでは男はもっぱらフラーテーションの対象として、揶揄的に描かれている。二人が牧場で頭の弱い牛飼いを挑発するところなんか、エロ的見地からしても相当なものだ。逆上した牛飼いによるロール強姦(未遂)のシーンのなまなましさ。ここで陰毛にボカシをかけなかった日本の製作者はえらい。

この映画がフランスその他の国で上映禁止になったのは、たぶん全篇にみなぎる反カトリシズムがその理由ではなかったかと思われる。こういうのは日本人には通じにくい。聖体パンを黒ミサに使うなんてカトリックでは許しがたい行為だろうが、日本人には「なんか背徳的なことをやってるんだなー」くらいの感想しか抱かれないのではないか。ヨーロッパの悪の根底にはかならず聖性の否定がある。しかし日本には「信仰にもとる=悪」という図式は存在しない。この映画が早々と日本で上映されたのは、そういう日本人の鈍感さのせいでもあるのではないか。

もちろんこの映画は邪悪なだけの作品ではなくて、甘美といってもいいような映像がいたるところにある。主人公の二人が自転車で街路を走るシーン、手をつないで森を駆け抜けるシーンには、白人の少女に特有の、美醜を問わないフォトジェニーが感じられる。こういうノスタルジックなシーンを見ていると、思春期の邪悪さは無垢と不可分なのではないか、という感想がわいてくる。

邦題に「悪の華」とあるように、二人は最後にボードレールの「恋人たちの死」と「旅」とを舞台で朗読して、それから自分たちの体に火をつける。これは一種の火刑だろうか。そういえばこの映画では燃えあがる火やローソクの炎は重要な役割を演じている。冒頭ですでに聖油ランプの炎が長々と映される。この火がどんな象徴的な意味をもっているのかはよくわからなかったが。

最後に、この映画にふさわしいと思われるボードレールの詩句を引用しておく。


暗さと明るさとが差し向かいになった
ひとつの心とその鏡。
明るくて黒い、「真実」の井戸
そこにふるえる蒼ざめた星ひとつ、


皮肉な、悪魔のような灯台
サタンの恩寵の松明
唯一の慰め、唯一の栄光
──それは悪のなかにある意識(良心)