阿部良雄「群衆の中の芸術家」

sbiaco2008-02-09



こんなことをいうと傲慢と思われるかもしれないが、私はボードレールに関してはその「すべて」を知っている。彼について未知のことすら知っている。もし彼が死んだのはペストのせいだといわれても、あるいは彼が若いころ娼婦を殺したことがあるといわれても、やっぱりそうだったか、と思うだけだ。彼の作品はわが家の庭みたいなもので、たとえ読んだことのないものであっても、その内容はすでに了解されて自分の手のうちにある。

そういう私にとって、この阿部氏の本(中公文庫、1991年。単行本初版は1975年)は、まさに勝手知ったるわが庭の案内書のごときものだった。もちろん、そのなかには未知の情報もいっぱい入っているわけだが、それすら既知のものであるかのように、まったく違和感を感じさせることがない。カンディッドではないが、私はこの本で自分の庭をもう一度いじる楽しみを味わった。こういう、どこへも連れ出されるおそれのない場所で、なじみのものとだけ親しく顔をあわせるというのはなんと楽しいことだろう。

そんなわけで、この本の提起する「問題的なもの」は私には問題になりえない。というか、すべてははじめから解決済みなのだ。本書の中心的なテーマは、ボードレールが美術批評家として同時代にいかなる役割を果したか、ということで、それについていろんな角度から検証がなされる。これが非常におもしろい。まるでジグソーパズルをやっているような快感だ。で、できあがったものはといえば、自分がかねて旧知のボードレールの肖像そのままなのだから、ますますもって後味がいい。

けだし、ボードレールの同時代に果した役割というのは、アマチュアリズムを英国からフランスへ移植したことに尽きるだろう。ボードレールの敵はアカデミズム(広い意味での)であり、味方は群衆あるいは公衆だ。群衆のなかに埋没しつつ個性を発揮するすべを彼はダンディズムと名づけた。そういう彼にとって、高踏的とか超俗的とかいう形容詞くらい不似合いなものはない。彼は芸術を俗化させた張本人であり、ヨーロッパ文化のひとつの終焉を加速させた触媒のような人だった。

ボードレールとともに現代芸術が出現したというのはほんとうのことだが、その衰退の原因になったことも事実だ。彼以降、芸術は本来のあり方を失って、どこまでも迷走をつづけたあげく、わけのわからない袋小路に陥ってしまった。そして、ボードレール的芸術の今日的形態はといえば、もしかしたらライトノベルがそれにあたるかもしれないのだ。その是非はともかくとして、彼の射程はそれほどにも長く、広範にわたっている。