ボオドレールという表記


私のもっている岩波文庫の「悪の華」の作者は「ボオドレール」であって、ボードレールでもボオドレエルでもない。なんともふしぎな表記というしかないが、鈴木信太郎がこういう奇異な表記をあえて選んだのには訣がありそうだ*1

まずボオドレエル。戦前はずっとこうだった。これはいわゆる(?)鴎外式。鴎外は外国語の表記にあたって、「ー」の使用を認めなかった。彼にいわせれば、「ー」なんて文字は日本語にはない、こんなものを使うやつはバカだ、だいいち字づらがよくないじゃないか、とさんざんだ。いずれにせよ鴎外の影響力は絶大で、そのため戦前の文学者はだいたい「ー」を使わず、ボオドレエルと書いていた*2

ところが戦後のある時期を境に、「ー」が勢いをのばしてきた。ボオドレエルもボードレールになった。よほどの頑固者でないかぎり、この趨勢に逆らうのはむつかしくなってきた。鈴木信太郎もかなりの頑固者だが、岩波の編集部から「当世ふうにボードレールでお願いできませんか」といわれて、しばし考えこんだにちがいない。

ところで、いまでこそボードレールという表記が一般的だが、これは原音とはちがう。原音に近く表記すればボドレールになる。じっさい、初期の紹介者である上田敏はちゃんとそう書いている(ボドレエルだが)。といっても、このボの音は微妙で、短母音と長母音の中間あたりの音だ。

この短母音と長母音の中間というのは、たとえば外国人が「山田」というとき、「ヤマダ」ではなくて「ヤァマァダァ」みたいに発音する、あの「間」に近い。

というわけで、ボードレールを原音に近く表記するならば、「ボォドレール」とでも書くしかない。しかしここまでやるのはやりすぎだ、と鈴木信太郎は考えた(と思う)。なによりもまず字づらがわるすぎる。そこで苦肉の策として、「ォ」を従来どおり「オ」にかえて、あわせて戦前派の面目を(半分だけでも)保ったのではないだろうか。

*1:ちなみに訳を訣と書くのも鴎外式

*2:もちろん鈴木信太郎