訳詩についての雑感


矢野峰人+シナラで検索してくる人が多いのですが(あくまでも相対的に、ですよ)、私は矢野峰人のよい読者ではないし、英詩についても多くを知りません。ですからこちらへ来られてもたいした情報は提供できないのです。見てがっかりした人には申し訳ないが、まあそういうことです。

しかしなんでいまになって矢野峰人か?と疑問に思って調べてみたら、この人の選集が出たんだそうですね。これは私も欲しい。しかし値段が……

まあ、装丁と内容とが値段に釣り合ったものなら、買っておいてもいいと思います。安物は転売がききませんが、高い本はそれなりの値段で処分できるからです。こういってはなんですが、そういう目的で買っている人も少なくないのでは?

彼の本はかつて牧神社から出た二冊本を読んで、これはすごいと思いました。あれはイギリスの世紀末文学を扱ったものですが、世紀末文学自体はフランス先導のかたちで発展したものなので、イギリスのものはどうしてもローカル臭がただよいます。しかし、これがまた捨てがたい味があるんですね。それはまた矢野峰人の本についてもいえます。イギリスのものをさらに日本に移植したときに生じるローカル臭。この臭味がなんともいえない魅力となって立ち昇るのです。

私もいっときあてられましたけれども、いまはもうあまり未練というか執着はありません。というのも、矢野峰人にかぎらず、凝りに凝った訳詩をつくる人に少々辟易しているからです。どうせ韻も律もまるきり違ったものにならざるをえない訳詩ならば、いっそプレーンなもののほうがかえって原作に近いものができるのではないか、いまはそう考えています。このことは、はるかむかしに佐藤春夫上田敏をけなして堀口大学をもちあげたときにすでにいわれていること。はっきりとはおぼえていませんが、たしか上田敏の訳詩を「ひねこびた盆栽みたいなもの」といっていたと思います。

盆栽のよさもわからないではないが、やはり盆栽は盆栽です。ほんものをもってこられると、たちまち精彩がうせるのは仕方ないところでしょう。盆栽とか箱庭とか、もうどうでもいいや、と思ってしまうのは、ほんものにふれた瞬間です。

ほんもの、とはこの場合原詩のことです。前にも書いたと思いますが、訳詩はどこまでいっても原詩を超えられません。超えたと思える瞬間があったとしたら、それは幻をみているのです。

しかし、ほんもののなかにも真贋があるといったら、ややこしいことをいうなといわれるでしょうか。いや、ややこしいことをいうつもりはないのです。ただ、詩人のなかには天性の詩人と、後天的な詩人とがいる、ということをいいたいだけです。後天的な詩人といってもわかりにくいかもしれませんが、たとえばマラルメのような人のことを考えてみてください。これは心ではなくて言葉で詩をつくっているので、いくら分析してもタマネギの皮をむくようなもので、いっこうにポエジーそのものに達することはできません。

いっぽう、天性の詩人とはヴェルレーヌのような人のこと。こっちはもう口をついて出た言葉がすでに詩になっているような詩人です。

上田敏流の盆栽か箱庭みたいな訳詩は、後天的な詩人に対してはやってもかまわないと思いますが、天性の詩人に対してやるのは労多くして得るところは少ない、というかはっきりいって冒涜に近いものがあります。天性の詩人にはいつわりの言葉を吐かせてはいけません。いつわりの言葉はにせもののポエジーにだけまとわせておけばいいのです。

なにがいいたいのかよくわからなくなってきました。ボツにしてもいいのですが、せっかく書いたのでアップしておきます。たぶんあとで消します。


(付記)
コメントをいただいたので、「あとで消す」は取り消しておきます。