教養主義について


昼休みに会社の近くの古本屋へ行ってみた。珍しく店主が客と話をしている。それを立ち聞き(?)していると、店主が「私は稲垣足穂が嫌いでして……」といっていたので、へえ、そうなのかと思った。そのあとで、「でも足穂は売れるから仕入はしましたがね」というのを聞いて、ちょっと意外な気がした。足穂なんか売れるのかしらん。

この本屋は前に西田幾多郎の「善の研究」を買ったところだ。そのとき店主が「むかしは私ら、これと阿部次郎の「三太郎の日記」だけは読め、といわれたもんです。この二つを読んでないと学生として認めてもらえんかった」というのを聞いて、ああ、ここにも教養主義に毒されたひとがいる、と思った。

毒された、といっても貶しているのではない。ただ、教養主義は毒になるか薬になるかといえば、毒になる場合のほうが多いのではないか、とつねづね思っているので、ついそういう言葉を使ってしまった。というのも、わたくし流にいえば、教養主義とは「欠点を矯めること」に主力をそそぐ行き方のことで、得意分野を伸ばす行き方とは正反対なのだ。そして、年をとるにつれて、後者のほうが行き方(生き方)としてずっと有益なのではないか、と思うようになった。

ニーチェは「教養ある俗物」といったけれども、どうも教養というものは俗物しか作らないみたいだ。俗物といってわるければ、平均的な人間。なんでもそつなくこなせるけれども、これといった強みがなく、第一線のプロにはなれない人種。当然のように社会では二流、三流の地位に甘んじていなければならない。しかし、なまじっか教養があるものだから、ルサンチマンだけは人一倍旺盛で、それがことあるごとに悲憤慷慨となってあらわれる。まさに俗物臭ふんぷんたる人物だ。

それにくらべて、教養なんかには目もくれず、若いころから自分の好きなこと(あるいは得意なこと)だけを一途にやってきた人々のほうがどれだけ輝いていることか。もちろんそれには生まれながらの才能ということもある。しかし才能とは、自分の欠点に目をつぶって長所を伸ばすことが自然にできる能力のことではないだろうか。どうもすぐれたひとにはそういう特色があるように思われる。

どうやらいまでは(幸いなことに)教養主義なるものは破綻してしまったようだが、「教養ある俗物」の時代のあとには、「教養なき俗物」の時代がつづくのだろうか。それはそれでちょっとやりきれない気がする。いまはその移行期か、あるいはすでに「教養なき俗物」時代に突入しているのか。

「教養ある俗物」時代を象徴するエピソードとして、パチンコ屋の景品でいちばん人気があったのが岩波文庫(!)だった、というのをあげておこう。ソースは鹿島茂氏。ただし又聞き。

ところで、上で言及した「三太郎の日記」だが、私がこの日記をはじめるにあたって「こういうスタイルで」と思って参考にしたのがほかならぬその本なのだから、他人様のことを笑っていられない。自分のごときは「教養にあこがれる俗物」としてひとくくりにされるのが落ちかもしれない*1

*1:じっさいは「俗物」を自称するのさえためらわれるような底辺の人間なのだが