ド・クインシー「深き淵よりの嘆息」


野島秀勝訳の岩波文庫(2007年)。「阿片常用者の告白」の20年後に書かれたいわば続篇のようなものだが、内容としてはあまり関係がない。

この本はどうも第二部の途中で作者が筆を折ったらしく、尻切れとんぼに終っている。といっても、もともとが断章のようなものだから、それで作品の鑑賞に支障をきたすようなことはない。作者の主眼は幼年時代の回想にあるので、それさえ書いてしまえばあとはどうでもよかったのではないか。じっさい、第二部の最後のほうは、本文とはまるきり関係のない、ある女性にあてて書かれた「この上なく性急な即興」になっている*1

さて、前に「告白」を読んだとき、ボードレールの「人工楽園」に出ていた「記憶はパリンプセストだ」という決めぜりふがどこにも見当たらないのを不審に思ったが、それはこの「嘆息」のほうから取られたものだった。「重ね書きした羊皮紙写本」とあるのがそれだ。作者はこの章でパリンプセストのなんたるかを微細に解説している。情報としてはとくに目新しい点はないが、その説明の仕方がいかにもディ・クィンシーらしい。ふつうに書くと10行くらいですむ説明が、彼の手にかかると何ページもの分量にふくらむ。それは訳文だけ見てもじつに凝ったもので、レトリックの見本を目の前に差し出されたような気持になる。こういう書き方は、たぶん作者が子供のころから親しんでいた古典文学研究から生まれたものではないだろうか。ギリシャ語、ラテン語のしっかりした教養は、おのずと自国語の文にもあらわれるかのようだ。スターン、コールリッジ、ディ・クィンシー、ペイター、メレディスなど、英文学のいわば王道をいく作家たちの文にみられるある種の難解さには、おそらく古典文学の研究が大きく影響しているように思われる。

それはともかくとして、この本はそういう記憶のパリンプセストのいちばん下の文字を復元しようという試みのようだ。つまり幼年期に起った決定的な出来事、姉の夭折がこの作品の主要なテーマになっている。ディ・クィンシーはこのとき受けた傷から生涯癒えることはなかった。いや、ある時期から、彼は傷が癒えることをみずから拒否したのではないかとさえ思われる。なぜなら、その傷を負っていることが彼のアイデンティティを保証しているのだから。この幼年時代の傷は閉じたり開いたりしながら作者の夢(それはまた悪夢でもある)を培い、後年、阿片を常用するようになってからは、それがとてつもない規模にまでふくれあがって作者をふるえあがらせた。で、その根元を断つべく、作者は幼年時代の回想をなるべく記憶どおりに書いてみようと思い立ったのではないか。いわばフロイトよりもはるか以前にみずから精神分析を行ったわけで、「われとわが身を罰するもの(heautontimoroumenos)」(ディ・クィンシーの自己規定)にはまことにふさわしい試みだったといえるだろう。

訳者は「解説」でディ・クィンシーをランボーその他の近代詩人に比較しているが、私がこの本を読みながら思い出したのは内田百間だった。訳文のせいかもしれないが、両者はかなり似ているような気がする。それは粘着性の記憶力と、それを吹っ切ろうとするかのような唐突な観念連合にあらわれている。あともう一人あげるとすれば稲垣足穂あたりになるだろうか。

*1:これはこれで一篇の散文詩のようなふしぎな魅力があるが