格闘技ほか


きのう久しぶりにボクシングを見た。まあNが勝つのは当然として、そんならさっさと早いラウンドでKOしてほしかったな。世界チャンピオンがあの程度ではちょっと情けない。圧倒的な力の差を見せつけてほしかった。

しかし世界チャンピオン相手にともかくも12R戦い抜いたというのは、やはりKもかなりの逸材なのかもしれない。Kのいいところ。ビッグマウスはご愛嬌としても、なんというか格闘家として華がある。これはアマチュアではなくプロでやる以上、たいせつなことではないだろうか。いっぽうのNは、そういう点ではダメだね。

だいたいボクシングに礼節とかなんとか、そういうものを求めるのはいつごろから始まったことだろうか。観客が求めているのは、リングの上で輝く闘士の姿であって、その条件さえ満たされれば、他の一切は不問に付される(はずなのだ)。観客は礼儀正しいボクサーなんて求めていない。野獣であればあるほど観客はコーフンするのだ。じっさい、観客がいちばん「沸く」のはどういうときか。いわゆる「打ち合い」になったときがそれだろう。文字通りの殴り合い。そういうものを求める観客は、コロセウムでの殺し合いにコーフンしていたローマ時代の観客と本質的に変りはない。

だから(とここで話が飛躍するが)、格闘技のファンは自分たちがある種の「変質者」であることを自覚すべきだ。他人が死にもの狂いで殴り合っているのを高みから見物する。これはじゅうぶんに変態的行為だ。そのことに無自覚な人間が、やれ礼節がどうの、リスペクトがどうのといったって始まらないのではないか。

格闘技ファンにぜひとも読んでほしいと思うのが、H.H.エーヴェルスの書いた「トマト・ソース」という短篇。これを読めば、格闘技を見ることの変質性が戦慄をともなって自覚されるだろう。と同時に、格闘家といわれる人々には「人格」なんかなく、それゆえに「神格」化される(いいかえれば格闘が「供儀」に変質する)過程もつぶさに味わうことができるだろう。

エーヴェルスという作家は、ひとをいやな気持にさせることにかけては天才的だったと思う。