翻訳者のあるべき姿とは


だいぶ前に「池内紀氏が嫌い」と日記に書いたことがあるけれども、頃日こちらの記事を読んでその理由が自分なりに明確になった。なるほど彼はそういう態度で翻訳にあたっていたのか、と目からうろこが落ちた。

池内氏の翻訳態度を自分なりに総括すると、原文を尊重しないこと、これに尽きる。もちろんそれが端的にいけないというわけではないし、場合によっては相当な効果を生むこともあるだろう。しかし、である。こういう態度は、原著者よりも翻訳者のほうがえらい、という見識のあらわれでもあるのではないか。あるいはそこまでいわなくても、翻訳者はテキストを自由に編集する権利がある、と本気で信じているのではないか。

編集、それはふたつのもののあいだをとって調整する、ということだろう。同じく中間的存在であるという点で、それは翻訳という作業と馴れあいやすいのかもしれない。しかし、両者はあくまでも別物だ。編集ということをいろんなものに適用すると、すべてがのべたらになってしまう。松岡正剛氏が「編集知」というようなことをいって、それを自分のフィールドで実践しているようだが、これはすべてをのべたらにする水平の思想ではないだろうか。フィールドは拡大する。すべてはリンクする。ただし、そこには屹立するものがなにひとつなくなる。こういうものが「知」と呼べるだろうか。やはり「知」というかぎりは、どこかに屹立する垂直の思想が必要なのではないか。

翻訳に話をもどすと、たとえばいま読んでいるフィヒテの「全知識学の基礎」の訳文などは、たぶん哲学的悪文の典型のようなもので、およそ自然な、楽に読める日本語とはほど遠い。まるで日本語でドイツ語を読んでいるような気持になってくる。しかしこれを裏返せば、それは原文が透けて見える訳文であるといえないだろうか。両方の言語に精通したひとならば、この訳文から原文を構成しなおすこともできるのではないかと思うほどだ。

文学ものの翻訳と哲学ものの翻訳とではわけがちがう、ということは自分といえどもわきまえているつもりだ。そういっても、翻訳者があまりにでしゃばるのはどうかと思う。彼はどこまでも透明人間に徹すべきではないのか。もし翻訳者が個性を発揮すべきだとしても、それはあくまでも透明人間としての個性であるべきではないか。おのれを殺すことによって他を活かすことが、翻訳者の、ひいては編集者の使命なのではないか。そんなことをちょっと考えた。