ヤコブ・ベーメ「黎明(アウロラ)」


ドイツ神秘主義の最後の頂点といわれるヤコブ(ヤーコプ)・ベーメの処女作(征矢野晃雄訳、牧神社、1976年)。これは大正10年に大村書店という本屋から出たものの復刻版、というかファクシミリ版で、誤記、誤植も含めてそっくり復元してある。こういう本の出し方の是非はともかくとして、ベーメの本邦初紹介、それもかなり念のいった紹介というのでこの古い本を読んでみた。

この本、慣れるまではそうとうに読みにくい。それもそのはずで、この本はベーメの内的体験(彼によれば神の啓示)をそのまま忠実に文にしたものだからだ。啓示とは天使の直観のように、一瞬にしてすべてを了解するたぐいのものだろう。そういったロゴスに媒介されていない知見を筋道たてて語るのはたしかに至難のわざだと思う。門外漢にはちんぷんかんぷんに見えてもふしぎではない。なによりもベーメ自身がこのようにいっている。

「此の黎明は……凡てのものの創造を、然し非常に神秘的に、示す。そして魔法的理解(智恵)に満ちているが、十分明瞭でない……」「この書物は、只著者自身の為にのみ、魔法的意味或は理解に於いて、書かれたもので、著者は他に如何なる読者のあることも知らない……」

そういっても、この本は1612年に執筆されるや、写本のかたちでいろんな人に読まれて大評判になったらしい。一種のベーメ・サークルのようなものもできたようだ。いったいなにがそんなに世人の関心をひいたのか。それはひとことでいえば、悪の起源の問題にひとつの合理的(といっていいかどうか)解釈を与えたからだ。神が全知全能ならば、とうぜんこの世に悪がはびこることも承知していただろう。至高至善のはずの神が、それではどうして悪の発生を許したのだろうか?

ベーメはこれに答えていう。悪はもともと神のなかに、善とともにあった。ただしそれは創造の「可能性」としてあったにすぎない。それがルチファ(三大天使のひとり)の傲慢とその堕落とによって「事実性」として世界に現出したのだ。神にあっては善を刺激し、協働していた悪が、ルチファの堕落によって分離され、事実性となって地獄に堕した、というわけだ。じっさいにはこんな簡単な説明でつくされるものではないが、まあだいたいはこんなところが骨子になっている。

しかしベーメは概略を示すのみではあきたらず、この思想のまわりに大胆きわまる宇宙論の衣をきせている。それはもう哲学からも宗教からも(ついでに科学からも)かけ離れたファンタジーとしかいいようのないものだ。ベーメ預言者として語っているつもりだったかもしれないが、出来あがったものはヨハネの黙示録そこのけの黙示文学だった。ここにはおそろしく豊穣な夢想の種がいっぱいまかれている。読んでいて頭がぐらぐらしてくるくらいだ。

そんな種のひとつに「サルニタ」なるものがある。サルニタとはなにか。これはサリッタともいい、おそらくサル(塩)とニトルム(硝石)との合成語だろう。ベーメはこれを神の七つの霊あるいは性質の合体したもの、天的自然の意味で使っている。では神の七つの霊とはなにか。それは鹹、甘、苦、熱、愛、響、形態性からなる。第七の形態性は前の六つから生み出されたもので、これがサルニタの実質だ。しかし、この形態性はまた前の六つの性質を生み出すものでもある……

などと書いているときりがないのでやめるが、とにかく変った本であるにはちがいない。これを読んでから野田又夫氏の「ルネサンスの思想家たち」(岩波新書)のベーメの項を読んだら、ずいぶんうまくまとめてあって感心した。この野田氏の本はもう一度はじめから読みなおしてみてもいいと思うくらい、随所に刺激的な記述がある。いまさらながらに名著だと思う。

それと忘れないうちに書き加えておくが、訳者の征矢野晃雄によるまえがき「ヤコブベーメに就いて」がじつにすばらしい。しかし、これのすばらしさはたぶん本文を読んだあとでないとわからないと思う。まえがきよりはあとがきとしたほうがよかったかもしれない。