ボロヴツィク「修道女の悶え」

sbiaco2007-08-18



私的追悼の第一回。*1

77年製作のイタリア映画らしいが、タイトルロールはフランス語、そして音声はなぜか英語になっている。なんで吹き替え版をわざわざDVDにしたのか、という疑問はさておき、この映画は駄作の多いボロヴズィックの作品のうちでは出来のいいほうではないだろうか。なんといっても特筆すべきはその映像の美しさだ。赤と緑とを基調にした色彩のコントラストは見るものすべてを魅了するだろう。それに尼僧たちの美しさ。こんな美人ばかりそろえた修道院なんてあるのだろうか。

ところで、ここに登場する美女たちは当然ながらみんな尼僧のいでたちをしている。もちろん頭には頭巾をかぶっている。コスチュームがこのように統一されると、白人の顔というのはほとんど見分けがつかない。話の前半ではだれがなにをやっているのかさえよくわからなかった。といっても、やっていることといえばおよそ修道院にあるまじき涜神行為ばかりなのだが。

裸でヨガのポーズをとって神(キリスト)と一体化しようとするもの、昼間から男を引っぱりこんで機織の下で快楽をむさぼるもの、拾った木片を加工して自慰にふけるもの、はては男の種をやどして臨月の腹をかかえたもの(厳格な修道院長はなぜかこの妊娠した娘にはひどくやさしいのだが)、等々。

しかしそういった数々の乱行も、霊と肉との葛藤とか、聖なるものを侵す快楽とか、権力に対する反抗とかいった意味あいがあるわけではない。というのも、ここでは宗教(神)に対する自然(悪魔)の勝利ははじめからほぼ決定的なのだから。いいかえれば、この映画は聖性という要素をまったく欠いている。ここで支配的なのはサディズムマゾヒズムといった垂直の構造をもつ力学的な契機ではなく、あらゆるものを水平化するアニミズムフェティシズムといった契機なのである。

ボロヴズィックという人はもともと動機(モチーフ)の人ではなくて静機(キエチーフ)の人だと思っていたが、その確信はこの映画を見てますます強まった。

それはともかくとして、聖性などというめんどくさい桎梏から解放された「尼僧もの」というジャンルは、いわゆる「女囚もの」に限りなく近づく。いわば女性版「暴力教室」。この映画もそういう一連の流れのなかで作られたものだと思ったほうが真相に近いのかもしれない。

それにしてもボロヴズィック監督も意地がわるいと思うのは、堕落したヒロインのクララの情交を、修道院長の臨終と重ね合わせて描いているところだ。毒を盛られた院長がまさに息を引き取る瞬間、クララは快楽の絶頂に達する。こういう描写を見ていると、いつもperversityという言葉が頭にうかぶ。うまく訳せないけれども、サディズムともイロニーともちがう一種の「不条理の魔」だ。

クララは戒を破って男を知ったことによって、また叔母の院長をなくしたことによって、なにか「絶対的なもの」に達したのだろうか。よくわからないが、自暴自棄ともとれる行動のすえ、彼女は死をえらぶ。院長に毒を盛らされた尼僧もまた自殺する。こうして三人の女が次々に死んでこの物語は終わる。

こうして見てくると、やはりこの映画も「愛と死」のテーマのひとつのヴァリエーションだといえるのかもしれない。ちなみに愛はフランス語でラムール、死はラモールという。このラムールとラモールにはたんなる語呂合せを超えた深い結びつきがあるように思われる。

最後に、この映画はスタンダールの「ローマ散策」を下敷にしているらしい。しかし、いったいどこまで忠実に原作を追っているのか、はなはだ疑問に思う。ボロヴズィックの場合、原作はたんなる口実、プレテクストにすぎないことが多いからだ。この映画の場合も、凡百の「尼僧もの」とは一線を画す意味で用意されたハッタリではないかと思う。

*1:第二回はいつになるか、そもそも第二回があるのかどうかも未定