追悼、ボロヴズィック


ワレリアン・ボロヴズィックが亡くなったらしい。それも去年の2月に。日本では訃報はまったく出ず、英語圏でもひと月遅れで発表されたらしいから、いかにこの監督の注目度が低いかよくわかる。

まあ、撮っている映画にろくなのがないから仕方がない。「エマニュエル5」なんてさすがの私もあきれ返った。この映画ではどうやら名前を貸しただけというのが真相のようだが、そういうことを平気でやること自体に問題がある。むりやり頼まれたのか、それとも金に目がくらんだのか。いずれにせよ、自分の仕事に誇りをもっている人間のやることではない。

というわけで、人間的にもあまり尊敬できる人ではなかったようだが、だからといって彼の撮った映画がすべて凡作なわけではないだろう。いまのところ、未見のものとして「罪の物語」と「修道女の悶え」とがある。遅すぎる追悼の意味をこめて、近いうちに見てみたいと思う。

この前、レンタル落ちのビデオで「ジキル博士と女たち 暴行魔ハイド」を買ったが、内容はともかく画質がひどくて、ビデオが消耗品であることを再認識した。なにしろ置いておくだけで劣化していくのだから。私はビデオは4、5本しかもっていないのでどうでもいいが、かつてビデオを大量に買った人は頭をかかえているのではないか。

去年はダニエル・シュミットが死んで、そのときは自分もこの日記にちょっとだけ書いた。今年はイングマール・ベルイマンが死んだ。ベルイマンについてもなにか書こうと思ってそのままになっている。こういう大物の場合、自分で書かなくてもだれかが書いてくれるだろうと思っていたが、ベルイマン見なおしの動きは意外に少ないようだ。ああいうめんどくさい映画は敬遠されるのだろうか。

私見によれば、ベルイマンもボロヴズィックも根底においてはあまり違いがない。どちらも暴力と背徳と官能の表現であることでは共通しているからだ。ただ、ベルイマンが禁欲的に表現するところをボロヴズィックは暴露的に表現する。要するに対象に向かう姿勢が違うわけだが、しかしその内的衝動には共通のものがあるように思う。

ボロヴズィックはいっときパリのシュルレアリスト・グループと接触があったらしく、ブルトンとも知り合いだったようだ。彼の露悪的な表現は、そういうことにも関係しているかもしれない。また彼はアニメ製作者としてその活動を開始したという。彼のモンタージュの使い方にはそのときの体験が大きく影響しているのではないか。

私は彼の映画をだれにもすすめないけれども、こういう奇矯なシネアストがいたということを少数の人が記憶していればいいと思う。同じく東欧出身のエミグレであるE.M.シオランの名とともに。