音楽現象学


クラシック百選が人気のエントリーにあがっているが、こういうものまでネタ扱いされるのがはてなのおそろしいところだ。

しかし、その意図はどうあれ、こういった「○○百選」はおおむね実際の役にはたたない。というのも、こういう総花的なセレクションはひとの好みをむりやり捻じ曲げるものだからだ。ありとあらゆる音楽をサンプル的に聴いて、そのすべてが気に入るなんてことがあるだろうか。そこから眺めればすべてのものが等距離にあるような精神の一点なるものは存在しない。

いっぽう、自分の好みを追求していけば、音楽史のパースペクティヴは確実にゆがみ、あちこちで屈折し、虚と実とは反転するだろう。客観的なものはすべて消滅し、主観的なものだけが残るだろう。こういうコペルニクス的転回を各自がみずからのものにしないといけないのだ。新たなる客観性は、この純粋主観(?)からしか生まれない。そして、そこにこそ音楽現象学が成立する地盤がある。

とえらそうなことを書いたが、音楽の領域に適用された現象学についてはおぼろげなところさえ理解できていない。が、この作業がきわめて魅力的であることはおぼろげながらわかる。たんなる印象批評や音楽学的な記述がもつ限界を突破して新たな地平を切り開くにはこの方法しか残されていないのではないだろうか。

現象学辞典」(弘文堂)にあげられた「音楽現象学十則」ともいうべきものをこちらのページから孫引きすると、

一、あくまで音楽という事象に即した記述を行い、あらかじめ原理を立てて説明する方式をとらない(記述的方法)。

二、事実の収集にとどまらず本質を問う(本質学)。

三、価値的先入見をエポケーして生活世界的現象としてのいっさいの音楽へと向かう(音楽一般)。

四、音楽は純粋志向的対象ともいうべきものであるから、客観的に存在するものとして前提しない(客観主義の克服)。

五、音楽についての客観的知識の収集と解読に満足せず、認識源泉をあくまで音楽の直接経験に求める。従って、文献学的実証主義的研究、概念史的、思想史的、文化史的研究とは一線を画す(直接的音楽経験への帰還)。

六、直接的音楽経験とは私にとっての音楽の経験であるから、ひとまず「私にとって」に立ち戻る(音楽の現象学的還元)。

七、さらに経験主体である私をも現象学的に還元し、個人的次元を超えて音楽を経験する意識生へと向かう(心理主義の克服、音楽の間主観的な経験構造へ)。

八、音楽的意識生には音楽的生活世界が相関するから、歴史を担った音楽的生活世界の分析へ向かう(音楽的生活世界への帰還)。

九、音楽の現出とは音楽が自己自身を示すことであるから現出において歴史と世界連関を持つ音楽という事象それ自体へ向かう(音楽の現出論、解釈学、存在論)。

十、音楽についての考察それ自体の反省を行う(音楽現象学現象学自己批判)。

こうして見てくると、さきに自分のあげたテーゼとは矛盾する点もいくつかあるようだが、いずれにせよ音楽について語る場合には、専門家でなくてもこういったことに気をとめておく必要があるのではないかと思う。

といっても、自分がCDについて感想を書くときにはこんなことはまったく考えていないけれども……それではいけない、という気持はつねにもっている。