ブルクハルト「イタリア・ルネサンスの文化」下巻


前に上巻だけ読んで放置していたもの(柴田治三郎訳、中公文庫)。ゲーテの影響で最近ちょっとイタリアづいているので、とりあえず下巻も読んでおこうと思って手にとった。いまさらわたくしごときがあれこれいう必要もない古典だが、この本、最近のルネサンス研究家にはどうもあまり評判がよくないらしい。日進月歩する史学界にあってはそれもやむをえないだろう。

この本にみられるブルクハルトのテーゼをひとことでいえば、「近代的なものはほとんどすべてルネサンス期のイタリア人がまっさきに発見した」ということ。これを逆にいえば、「前近代的なものから脱却することがいちばん早かったのがイタリアだ」ということになる。つまり、われわれがふつうにルネサンスという言葉から連想するイメージを決定づけたのがこの本だ、といえるかもしれない。

著者はこのテーゼからはずれない範囲で、ルネサンス期の文化を縦横に論じている。いや、論じるというよりも描写するといったほうがいいだろう。これは著者が文献をたよりに4世紀前のイタリアへ旅行した記録だといってもいい。そういう意味では、これもまた北方人の南方へのあこがれが生んだ、一種のイタリア紀行だといえるだろう。

ゲーテは「イタリア紀行」のなかで、自分の直接の先行者としてヴィンケルマンの名前を何度もあげている。ウォルター・ペイターは「ルネサンス」のなかでこのヴィンケルマンをとりあげて詳細に論じた。はじめてペイターの本を読んだとき、ヴィンケルマンなんてルネサンスになんの関係があるんだ、と思ったけれども、今回ブルクハルトの本を読んで、ヴィンケルマンの精神こそがルネサンスの発見(変ないいかただが、ルネサンスはドイツ人によって再発見=刷新された)をうながした契機なのではないか、と思うようになった。

本書はルネサンスを閉じたもの、完結したものとして、あたかも芸術作品を扱うように論じている。この歴史学的な制約が、逆に芸術品としての価値を本書にあたえている。学術書としての価値がなくなっても文学書として読めるというのは著者にとって最高の名誉ではないだろうか。柴田治三郎の訳は本書のそういう面にも配慮したすばらしいものだ。座右において、おりにふれて何度でも読み返したくなる本のひとつ。