宇能鴻一郎「味な旅 舌の旅」


私の好きな宇能氏の旅行エッセイ集(中公文庫、1980年)。もともと1968年に日本交通公社から出た本を文庫化したものらしい。日本全国、北から南まで縦断して、各地のうまいものを文字通り食い倒した記録である。私は食べ物エッセイはわりと苦手なほうで、この本も買ってから長いこと積読になっていたが、最近いくつか旅行記を読んでこの手のものに関心が出てきたので、あらためて手にとって読んでみた。

で、読んだ感想だが、もうすばらしいの一語につきる。あらためて小説家というものの力量のすごさを感じた。考えてみれば、小説が書けるほどの文章力があれば、エッセイを書くくらいは朝飯前なのにちがいない。主なテーマは食べ歩きなのだが、ときに脱線して文明批評や歴史や風俗、さらには神話や伝説の世界にまで話がおよぶ。著者は東大の国文学科を出たというだけあって、こういう方面にはかなりくわしい。こういった薀蓄の数々が、この本をたんなる食べ物エッセイ以上のものにしている。

宇能氏といえば、もっぱら「性愛」をテーマにした小説で知られているが、私見によれば、それらはいずれもアニミズムを基調にしている。アニミズムにまでさかのぼれば、食と性とはほとんど一直線につながっているだろう。こういう視点をもつ宇能氏にとっては、食べ物も女体も貪欲に体内に取り込むべき「もの」として一元的に捉えられる。そこには哲学も倫理もない。ただ牡としての本能がむきだしになっているだけ。

宇能氏はいう、「たしかにぼくには自分以外のあらゆる存在を、わが身に取入れたい、熾烈な願望のようなものがある。とりこんだあとの、血と脂にまみれた舌なめずりは言いがたい喜びである。これは侵されることによる侵しであるともいえよう。これとは逆に、他の存在によっていささかでも侵されることを好まぬタイプの人は、食事を必要悪のように考え、食事がおわるや早々と湯茶をのみ、異物に体内に侵入された記憶を消しさろうとつとめる傾向がある」と。

といっても宇野氏はなかなかダンディで、この本にも一貫した美学のようなものはあるのだが、最後にいたって、鹿児島で食えなかった「トンコツ」を奄美で食った瞬間、著者はそれまでのダンディズムをかなぐり捨ててこう書く、「瞬間ぼくは、七十五キロの体重をこれ以上増やさない用心のことを忘れた。こうした美味で血管にコレステロールが沈着するのなら、それでもかまわないと思った。糖尿病も心臓病も糞くらえ。腹がつき出てモテなくなっても知ったことか。はじめて奄美らしい原始的珍味に接して、ぼくは感激のあまり、追加注文に追加を重ねて、かなり部厚くブッタ切った豚の脚を三箇もまたたくうちに平らげてしまったのである」と。

てもあっぱれな心意気、とはこういうことを指すのではないか。