現象学について


新田義弘氏の「現象学と解釈学」(ちくま学芸文庫)を少しずつ読んでいる。読了するのにあと数日はかかりそうなので、ここでちょっと現象学について思うところをメモしておく。

現象学の魅力とはなんだろうか。私見によれば、それはまず名称のカッコよさにある。そもそも現象という言葉が魅力的だ。原語のフェノメノンには現象以外に「異象」という意味もあるし、さらには見世物小屋の畸形人間の意味もある。マラルメ散文詩「未来の現象」が扱っているのがこれだ。

それと、提唱者のフッサールという名前がまたカッコいい。フッサールは哲学者にはめずらしく顔もよくて、こんなじじいになりたいと思わせるだけの魅力がある。顔と名前のカッコよさという点で、フッサールは私のなかでクナッパーツブッシュと同じ位相にある。

たしかみうらじゅん氏だったと思うが、人を動かすのは正しさなんかではない、カッコよさこそが人を動かすのだ、というようなことをいっていた。これは至言だと思う。われわれはつねにカッコよさにあこがれ、またそれに衝き動かされているのだ。

というわけで、なんとなくあこがれに似た気持をもって現象学の門をたたくひとは少なくないと思われるが、じっさいに入門書を読んでみると、これがさっぱりわからない。そもそもなにが問題になっているのかさえわからない。現象学の入門書はたくさんあるけれども、そのうちの一冊でも読んで腑に落ちたものがあるか。どれもこれも消化不良を起こしそうなものばかりだろう。

どうしてこういうことになるかといえば、現象学が一種の密教だからだ。密教という言葉が抹香くさいなら、秘教といってもいい。入門書に書かれているようなことは、いわば現象学顕教の部分であって、そんなものはいくら読んでもかんじんなことはわからない。現象学は、フッサールという魔術師によって秘教化された、本質的にエゾテリックな学問なのである。

新田氏はこの本で、現象学を解釈学とからめながら論じている。この解釈学というのもかなりエゾテリックな学問だと思う。私の勝手な想像だが、解釈学のルーツをさぐっていくと、ユダヤ教カバラに行きあたるのではないか。これまた一種の秘教伝授の方法でしか体得できないものなのではないか。ヘルメノイティックという言葉がそのことを暗示しているように思われる。

というわけで、新田氏がこの本でやっているのは、この二大秘教の交差する場所(地平?)をさぐりあて、掘り返す作業だ。なにが掘り出されてくるだろうか。たぶん、核になるものはなにも出てこないだろう。しかし、この掘削作業がつまり哲学なのだと思う。