沓掛良彦「トルバドゥール恋愛詩選」


前に言及したハルモニア・ムンディの「トルバドゥールとトルヴェール」(センチュリー#4)だが、やっぱり気になって購入してしまった。ちょっと作りすぎの感は否めないものの、聴いて楽しめるという点ではすばらしい出来だと思う。しかし、これが音にきくトルバドゥールの作品なのだろうか。この音楽のどこにも「みやびの愛」らしきものは認められないのだが。

まあそれはともかくとして、きょうは長らく積読になっていた沓掛良彦氏の労作「トルバドゥール恋愛詩選」(1996年、平凡社)について書いておく。

トルバドゥールの詩(厳密には歌)には論争詩、問答詩、牧歌、諷刺詩などいろんな種類があるが、この本で訳されているのはもっぱら恋愛詩(カンソー)にかぎられている。そしてトルバドゥールの真髄がこのカンソーにあることは周知のとおり。したがって本書は中世盛期の200年間にあらわれたトルバドゥール詩の精華をすくいとったものであるということができる。

内容をみると、詩人ごとに「古伝」と「作品解題」(いずれも当時のもの)がそえられていて、そのあとに詩が置かれている。最後のほうには女性のトルバドゥール(トロバッツと呼ばれる)の作品もいくつか収められていて、アンソロジーとしては申し分ない出来だといえるだろう。

さて、収められた詩だが、これはもう貴婦人にあてられた韻文によるラヴレターというよりほかない。まず時候の挨拶があって、そのあとに恋人のつれなさをなげく箇所があり、それから詩人が恋人の「慈悲」を乞い求める訴えがつづく。もちろん恋人への賛辞はいたるところに見られる。なかには相手の肉体の美点をこまごまと数えあげているものまである。

骨子はまあだいたいこれだけで、あとはそれをいかに優雅に歌いあげるかが詩人の腕のふるいどころになる。しかし、韻も律もなく、ましてや節もともなわない日本語にこれを置き換えた場合、たいてい察しがつくように、どの詩もみな同じようにみえてしまう。千篇一律とはこのことだろう。訳者もその点を心配して、訳が原詩のすがたを伝えていないことをくどいほど繰り返し弁明している。

しかし、訳者の心配は少なくとも私には杞憂だった。けっこう楽しんで読むことができたからだ。ここにはトリスタン伝説以来の「情熱恋愛」が格調高く歌い出されている。どの詩句も、紋切型でありながら、紋切型に徹することによってひとつの世界を浮かびあがらせている。ことにおもしろく思われるのは、トルバドゥールにおける恋愛がどこまでもマゾヒスティックなものとしてあらわれている点だ。ここでは女性はつねに九天の高きにもちあげられ、恋人はその足下にふみにじられながらひたすら「慈悲」を乞うという構図になっている。

この「慈悲」を「恩寵」と読みかえるならば、貴婦人崇拝は容易に聖母崇拝に転化するだろう。じっさい、トルバドゥールのなかには歌の世界から信仰の世界へと転向したものも少なくなかったらしい。彼らはかつて貴婦人にささげた思いを、今度は聖母マリアに対してささげたというわけだ。ここでは肉の愛と霊の愛とは見分けがたいまでに一体化している。ここからダンテの「新生」まではほんの一歩だという気がする。

本書は訳文という点ではほぼ現代の口語文で統一されていて、それはそれで正しい選択だったと思うが、原詩の多彩な韻律を少しでも生かして訳すなら、いろんな文体を使い分けるのもひとつの方法だったのではないだろうか。かつて矢野目源一が訳詩集「恋人へおくる」で試みたように。