岡田温司「処女懐胎」


中公新書が誇る(?)もう一人の岡田氏の本。これは「処女懐胎」という題がついているが、内容からすればむしろ「聖家族」とでもしたほうがよかったかもしれない。というのも、本書で扱われているのは、マリアとイエスとの関係だけではなく、その夫ヨセフ、その母アンナとの、少なくとも三代にわたる関係であるからだ。とはいうものの、ヨセフにしろアンナにしろ、マリアの処女懐胎に事後的に付加されたエピソードであって、聖家族の核にマリアとイエスとの関係があることに変りはない。

私がこの本を読んで意外だったのは、「処女懐胎」と「無原罪の御宿り」とは別物だということ。この両者、てっきり同じものだと思いこんでいたからだ。著者によれば、無原罪の御宿りとは「マリアが処女にして神の子を宿したということとは区別されるもので、マリアの誕生それ自体が肉の罪を免れていたいたということ」をさすらしい。

つまり、マリアは神の子を生んだことによって、加上的にみずからの出自もまた原罪を免れていたとされるわけだ。これを観念的にいえば、自分の生んだ子がすなわち自分の親にあたるということになる。

そういえば、ダンテの「びるぜん祈祷」に「母なるをとめ、わが子のむすめ」という詩句があって、これが長いこと謎だった。「母なるをとめ」はいいとして、「わが子のむすめ」とはいったいなにごとか。それがこの本を読むに及んで氷解した。つまり、この詩句の前半は処女懐胎を、後半は無原罪の御宿りをさしているのだ。

「わが子のむすめ」に関していえば、本書の162ページに「アウグスティヌス以来よく言及されてきたパラドクス」として、「マリアはみずからの父の母であり、キリストはみずからの母の父である」というのが紹介されている。なるほどダンテはそういう文脈のなかであの詩を書いたのか、といまになってようやく納得できた。

さて本書だが、なによりもまずその珍奇な図版に目をうばわれる。よくこれだけ変な図版を集めたものだと思う。この「変」なところに向かう著者のまなざしが自分にはひどく好ましい。オーソドックスな筋をたどっていたら、思わずビザールなものに出くわしてしまった、とでもいいたいような意外性がこの本にはある。

マグダラのマリア聖母マリアときて、さて次はなにが取り上げられるのだろうか。もうひとつ同じようなネタで書くことができたら、岡田氏を神(ネ申?)に祭り上げてもいい。