カール・ドライヤー「ヴァンパイア」

sbiaco2007-01-13



久しぶりに近所のDVDレンタル店をのぞくと、品揃えがずいぶん変っていて驚いた。どうやらビデオはほぼ一掃されたようで、その空いたスペースにクラシック映画をだいぶつめこんだみたいだ。きょうはとりあえずカール・ドライヤーの「ヴァンパイア(吸血鬼)」(1932年)を借りてみた。

冒頭に淀川長治の解説がはいっている。うっかり聞いていたら、どんどん映画の内容に立ち入ってくるのであわてて飛ばした。

さて、これは吸血鬼映画の古典とされているものだが、なぜかいままで見る機会がなかった。どうも名高いわりには不当に閑却されていたのではないか。そして、その理由が、見終ったあとになってようやくわかった。というのも、この映画、とても一般のひとが見ておもしろいと思えるような作品ではないのだ。

まず第一にフィルムの保存状態がよくない。ビデオでいえば3倍モードのそのまたダビングのような映像で、画質にうるさいひとならとても我慢ができないだろう。

第二に、その霧がただよっているような映像に輪をかけて、ストーリーが曖昧模糊としている。基本的には過去にその村で起った吸血鬼事件が現代によみがえったという設定なのだが、それが物語の枠としてしっかりと固定されているものだから、作者はその枠内で思う存分好き勝手なことをすることができる。どう見ても観客を煙に巻こうとしているとしか思えない。そういう作者のファンタジーにどこまでついていけるかが、この映画をおもしろく見るための条件になる。

第三に、怪奇映画に分類されているにもかかわらず、あまり怖くないということ。その理由のひとつに、物語が展開するのはおもに夜間のことなのに、画面は真昼のように明るいことがあげられる。撮影技術の点で夜の効果を出すことができなかったのだろうか。もっとも、画面が明るすぎるために、逆に白昼夢のような幻想的な雰囲気を出すのには成功しているともいえるだろう。どうしても怪奇映画にこだわるならば、この見地から評価するしかない。

そういえば、子供のころテレビで見て強烈な印象をうけた映画に、「去年の夏、突然に」がある。これはまさに白昼の悪夢としかいいようのない作品で、子供の心にやけどのような印象を残した。ドライヤーの作品が傑作として語りつがれてきたのも、たぶん初期の観客がそんな白昼夢のような印象をもちつづけて、それを書いたり語ったりしたためではないだろうか。

映画を見終えたあと、冒頭に戻って淀川長治の解説をきいてみると、どうもおかしなことをしゃべっている。映画の内容とぜんぜん合致していない。このことをもってしても、淀川長治ほどの人でさえ、この映画のストーリーを完全に頭のなかに保存することはできなかったことがわかる。彼もまたここではもっぱら印象について語っている。そして、その印象は、淀川長治の心のカメラがとらえた印象、つまり彼の記憶のなかで徐々に変形された印象にほかならないのだった。