「アルス・ノヴァの世紀」

sbiaco2007-01-07



去年、感想を書けなかったもう1枚がこれ。

"LE SIECLE DE L'ARS NOVA" (HARMONIA MUNDI, CENTURY 6)

前回、中世音楽に精神性はない、と書いたが、これはもちろん世俗音楽に関してのみいえることで、宗教音楽にはあてはまらない。精神性は霊性ともいわれ、ほんらいは宗教がらみで使われるべき言葉だ。だから、精神性のないような音楽はそもそも宗教音楽たりえないのである。

とはいうものの、このCDに収められた宗教曲(作者不詳の「トゥルネーのミサ」とギヨーム・ド・マショーの「聖母ミサ」とからの抜粋)を聴いてもあまり精神性らしきものは感じられない。なんだか複数の人間がてんでにお経をあげているようで、厳粛な感じはするけれども、精神性=霊性は意外に稀薄なのではないか、と思ってしまう。これはたぶん音楽における精神性というものが、ほんらいの宗教的な意味をはなれて、独自の意味あいをもっているからだろう。

とぼしい知識で考えてみると、われわれがふだん口にする精神性(音楽における)は、おそらく音楽史のうえで大バッハにはじめて顕著にあらわれたのではないか。そして、その伝統は十九世紀にいたるまで、おもにドイツ音楽のうちに細々とうけつがれてきたのではないか。確証はないが、どうもそんな気がする。この精神性重視ということが、クラシックのなかでもとくにドイツ音楽を尊ぶ傾向とよく合致するように思うのは自分だけだろうか。

まあ、それはともかくとして、このCDに戻ると、収録された曲から判断するかぎり、アルス・ノヴァはおもに北フランスと北イタリアで栄えたもののようだ。この事実は、アルス・ノヴァがアルス・アンティグアに対するアンチテーゼとして成立したのと同時に、南仏のトルバドゥールをも仮想敵としていたのではないか、という疑問を生ぜしめる。アルス・ノヴァの末期形態であるアルス・スブティリオルは、むしろ閑却されたトルバドゥール的な要素を積極的にとりいれた結果、ああいう音楽になったのではないだろうか。これまた確証はないが、どうもそんな気がする。

このセンチュリーシリーズには、「アルス・ノヴァの世紀」に先立つものとして「ポリフォニーの誕生」と「トルヴェールとトルバドゥール」の2枚がある。前者はともかく、後者にはちょっと食指がうごく。

トルバドゥールといえば、沓掛良彦氏の「トルバドゥール恋愛詩選」(平凡社)という本が長いこと積読になっている。法朗西古詩の訳は矢野目源一の「恋人へおくる」があまりにもすばらしくて、ほかの訳詩を読む気が失せてしまったものだが、沓掛氏の本はまた違った意味で力作のようだ。