ドイツ語のこと


森鴎外はたぶん本格的にドイツ語を学んだ最初の日本人のひとりだろう。彼はドイツ留学もしているし、かの地ではドイツ娘を誘惑(?)したりもしているから、そのドイツ語の発音はかなりしっかりしたものだったと思われる。とはいうものの、ドイツ語のカタカナ表記という点ではずいぶんおかしな(いまから考えると)こともやっている。有名なところでは、ゲーテをギヨオテと書くのなんかがそうだ。同様にゲッツはギヨツツ、ケーニヒはキヨオニヒである。

ドイツ語の大家、関口存男はこの鴎外式カタカナ表記を「非常におかしい」と一蹴している。しかし、じっさいにドイツ人の発音するゲーテゲーテとは聞こえない。聞きようによってはグータとも聞こえる。さすがにガーテやゴーテは論外だが、ギヨオテ(いまふうに書けばギョーテ)はけっこういい線をいっているのではないか、と思う。なによりも、オーウムラウトが「エ」ではないことだけははっきりとわからせてくれる。

この式でいくと、メーリケはミョーリケ、レントゲンはリョントヘン、ケルンはキョルン、ヘルダーリンはヒョルデルリーン、ベックリンはビョックリーン、イェルクはイョルク(これはちょっと問題)などとなる。やっぱりおかしいかしらん。

さて、鴎外が正式のドイツ語教育を受けた正統派だとすれば、関口存男は変則的な勉強でドイツ語の大家にまでのしあがった変りだねだ。関口の勉強がいかに変則的なものだったかは、「趣味のドイツ語」(三修社)という本のうしろのほうにある「わたしはどういう風にして独逸語をやってきたか」という文におもしろく書かれている。なにしろこの人、初級文法もおわらないうちに、1000ページもあるレクラム文庫の「罪と罰」を買ってきて、二年かがりでほとんど暗記するくらいに読みこんだらしい。

最初はもちろん皆目わからなかった。しかし、わからないところは何十ぺんも読んで、前後関係から意味を推しはかるように努めたという。いや、ここでいう「意味」は、ふつうにいうところの意味(センス)ではなくて、むしろ「方向(センス)」といったほうが近いだろう。錯綜する文のなかから方向性を見出すこと。それはつまり文を生きたものとして、有機的な関連のなかで捉えるということだ。

じっさい、彼は「意味はよくつかめない(つまり翻訳はできない)が、しかし理解できる」というようなことをいっている。要するに、関口はドイツ語をドイツ語によって学んだといえるだろう。つまり、ドイツ人が母国語を学ぶように、言語の「内側から」ドイツ語の壁をくずしていったわけだ。しかし、こんなのは超人的すぎて、とても自分なんかの参考にはならない。

関口いわく、「学校で教えられるドイツ語を全然度外視し、初級中級をカッ飛ばしていきなり千頁近くもある原書にくらいつき、まるで猛獣に巻きついて食うか食われるかの死闘を演ずる熱帯の大蛇のごとき鼻息で、執拗な、単調な努力を、およそ一年半ないし二年もつづけた」と。

この文からも、関口存男のひととなりはなんとなくわかるのではないか。とにかく全身エネルギーのかたまりのような人物で、彼の文を読んでいるとこっちまで気分が高揚してくる。彼の残した語学書がこんにちなお命脈をたもっているとすれば、それは内容によるものではなくて、著者の気概というか意気込みがダイレクトに伝わってくる、その熱度においてだろう。