ディ・クィンシー「阿片常用者の告白」


田部重治訳の古い岩波文庫(1937年)。ディ・クィンシーは英文学では重要な存在だと思うが、翻訳はあまり出ていないようだ。何年か前に出た「著作集」も値段が高すぎて、一般にはあまり知られずに終ってしまったのではないか。ちくま文庫あたりで主だったところを出してくれればありがたいのだが。

この小説は、かつてボードレールが翻案して「人工楽園」という題をつけて出している。昔これを読んだときは、「記憶はパリンプセストである」とか「女きょうだいに囲まれて育ったものには特有の雰囲気がある」とかいった言葉だけが印象的で、全体としてはあまりおもしろくなかったような記憶がある。しかし、今回オリジナルのほうを通読してみて、すばらしい小説だとあらためて思った。英国ロマン派のいいところがすべて凝集されているといっても過言ではない。

ディ・クィンシーはコールリッジに近い資質の持主だったらしい。ドイツ哲学への傾倒、阿片への耽溺、ワーズワースへの憧憬などが両者に共通している。が、コールリッジが堂々たる「おとな」の風格をもっているのに対し、ディ・クィンシーのほうはどこか「子供」じみたところがある。これがまた魅力的だ。はじめのほうで語られる「小さいアン」のエピソードなどは、一度読んだら忘れられない少年と少女との恋物語である。

後年、阿片の飲みすぎで悪夢に悩まされていた著者が、ある晩、アンのことを夢にみた。そのくだりを読むと、アンという十五歳にもならない娼婦との交渉(といっても、性的な要素はいっさい含まない)が、いかに深くディ・クィンシーの心に食い入っていたかがわかって胸が痛くなる。彼女はすでに彼にとってひとつの神話あるいは象徴になっているのだ。じっさい、アンという少女のリアリティは、象徴以外のなにものでもない。それだけに、普遍的な相をもって読者に迫ってくるのだろう。

アンのエピソード以外にも、書いておきたいことはいろいろあるが、あまりに多すぎて書ききれない。最後にひとつだけ。上に書いた「人工楽園」で印象的だったふたつの言葉だが、どちらも文字どおりのかたちではディ・クィンシーの本には見当たらなかった。記憶に関するほうはいちおうそれらしい記述があるが、女きょうだい云々に関する記述はこの本には見られないようだ。もしかしたら、ボードレールはディ・クィンシーのほかの本からも適当に引用しているのかもしれない。