あるベーシストの話

sbiaco2006-12-10



寝すぎて頭が痛い。起きるべき時間を8時間ほど超過してから目がさめた。

昨日、はじめてピーターソンのアンプを現場で使ってみた。予想以上のすばらしさ。いままでの努力はいったい何だったんだ、と思う。やはりテクノロジーの力は大きい。と同時に、テクノロジーに依存しすぎることの危険をも感じてしまう。実際の実力以上のものがテクノロジーの進歩によって可能になるからだ。最新のテクノロジーを採りいれたものが勝ち、なんて馬鹿げてはいないだろうか。そういうものの底の浅さは、いずれ時の経過とともに露呈するだろう。そして、真の実力の持主だけが最後には残ることになるだろう。

まあ、それはそれとして、こうして自分本来の立ち位置にかえってみると、いまさらながらにベースという楽器を深く愛していることに気づく。その扱いにくさや、不器用なところも含めてすべてを、だ。そんな自分が昔もいまも尊敬しているベーシストに、ミロスラフ・ヴィトウスがいる。この人はチェコの出身で、18歳かそこらでアメリカに渡って、いきなりジャズ・ベースの概念をくつがえすような演奏をやってのけた。

彼はのちにウェザー・リポートに参加して有名になったが、このグループにはジャコ・パストリアスというこれまた天才プレーヤーが在籍したので、ヴィトウスはその点でちょっと割りをくっている。ジャコのような破天荒な天才に比べると、どうしても影が薄くなるのはやむをえない。しかし、一ベーシストとして捉えた場合、ヴィトウスはジャコよりもずっと偉大だ。というのも、ジャコには大勢のフォロワーがいるけれども、ヴィトウスの後を襲うようなベーシストは絶無だからだ。その音色、タイミング、フレージング、どれをとっても真似のしようもないほどのオリジナリティにあふれている。

彼が初期のころに参加したアルバムは、すべて傑作の泉だ。チック・コリアの「ナウ・ヒー・シングス・ナウ・ヒー・ソブス」、ラリー・コリエルの「スペイセス」、ジョー・ザヴィヌルの「ザヴィヌル」など。自身のソロ「限りなき探求」もすばらしいが、日本で製作された「パープル」はそれに輪をかけた戦慄すべき傑作。これがいっこうにCD化される気配がないのはふしぎとしかいいようがない。

いまでもときどき彼のCDを聴くが、そのたびに打ちのめされたような気分になってしまう。たんに演奏のすばらしさにノックアウトされる、というのとは違う。どうがんばっても彼の足元にも及ばないという諦念がそこに混じっている。すべてのベーシストにとって、彼はジェラシーなしに聴くことができない存在なのだ。

そんな彼も、いまではもう中年をすぎて老年にさしかかっているはずだ。この先、たいした活躍は期待できないけれども、彼が二十歳前後に残した記録は、今後もジャズ・ベースの不滅の金字塔として長く人々の記憶に残っていくだろう。