チャイコフスキー「3大バレエ組曲」
チャイコフスキーの「くるみ割り人形」は子供のころからのフェヴァリットだった。しかし、長いこと手持ちのディスクがなかったので、数年前、ビゼーの曲とカップリングになった廉価盤を買ってみた。で、それを最近とりだして聴きなおしているのだが、聴けば聴くほどすごい音楽だと思わざるをえない。子供にもよくわかって、なおかつすれっからしの大人が聴いても楽しめる曲なんてそう多くないのではないか。
そんなわけで、チャイコフスキーのほかの曲も聴きたくなって、カラヤン指揮の「3大バレエ組曲」(ユニバーサル・ミュージック)を買ってみた。カラヤンは好きな指揮者ではないが、やはり安心感があるし、なによりも安かった。
このディスクは「眠りの森の美女」からはじまる。最初の音を聴いたとたん、きらびやかな照明のあたった舞台のイメージがいきなり脳裏に浮かんできて驚いた。さすがはカラヤン&ベルリン・フィルだけのことはあるな、と妙に感心した。
しかし、聴きすすむにつれて、なんかちょっと違うんじゃないか、という違和感を感じはじめた。録音のせいもあるのかもしれないが、全体的にべたっとした印象で、あまり高揚感を感じない。よくいえば抑制のきいた演奏なのだが、それ以前にオーケストラがあんまり楽しそうでないのが気になる。ベルリン・フィルってこんなクールな(あえていえばおもしろくない)演奏をする楽団だったのか。
そのことは、最後の「くるみ割り人形」にいたってはっきり確信に変ってしまった。私が愛聴していたのは、アーサー・フィードラー指揮ボストン・ポップス・オーケストラという、あまり有名でもなさそうな楽団のものだが、ここに聴かれる演奏は、その躍動感といい、曲のテンポといい、オーケストラの鳴りといい、カラヤン盤よりはるかにすぐれていると思われる。
しかし、と思う。もし、カラヤン盤のほうを先にきいていたら、やはりカラヤン盤のほうに軍配をあげていたのではなかろうか。前にチョコは最初に食ったものがいちばんうまいと書いたけれども、音楽の演奏にもそれがいえるのではないか。最初になじんだ演奏というのは、よかれあしかれ、その曲のスタンダードになってしまうのではないか。
年配の音楽評論家などが書く「名曲のすすめ」には、あいかわらずフルトヴェングラーやリヒターといったおなじみの名前が出ていて、「21世紀になってもフルトヴェングラーかよ」と失笑を禁じえないことが多いのだが、たぶん彼らはフルトヴェングラーの演奏で真の音楽体験といえるものを味わったのだろう。その後、どんなすぐれた演奏を聴いても、最初の決定的な体験を超えることはできず、そこで1枚推すとなると、やはりフルトヴェングラー盤をあげざるをえないのではないか。
しかし、そういったことをすべて差っぴいたとしても、ベルリン・フィルの演奏は自分の好みに合いそうもない。もちろんこれ1枚では断定できないが、なにごとによらず第一印象というのは後々まで尾を引くものだ。もし、ベルリン・フィルの決定盤、というようなものがあるなら聴いてみたい。もちろんこの場合、オケさえちゃんと鳴っていれば、作曲者や指揮者はだれでもいい。
(付記)
ふと思い出したが、カラヤン&ベルリン・フィルの演奏は、前にヴェルディの「レクイエム」を買って聴いている。これについては去年の日記に感想を書いた。読み返す気もしないけれど、あまり好意的なことは書かなかった記憶がある。