マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー」
気がすすまないながらも読了(古在由重訳、岩波文庫)。この本はそもそもの成立事情にかなり問題があるらしく、ここで訳されているのは「フォイエルバッハ」の章全部と、「聖ブルーノ」および「聖マックス」の章の抄録だけ。そのことからもわかるように、この本で重要なのはもっぱら「フォイエルバッハ」の章であって、あとはその付録みたいなものだと思っていい。
「フォイエルバッハ」は、マルクス=エンゲルスが最初に書いた共産主義宣言、というより史的唯物論宣言だ。いちおうフォイエルバッハ批判というかたちはとっているものの、ここではフォイエルバッハの影は比較的薄くて、もっぱらマルクス=エンゲルスの経済史研究の成果が盛り込まれている。分業、交換、交通といった、マルクス主義でよく使われる概念のほとんどはここに出尽くしているといってもいい。その意味では重要な作品なのだろうが、自分のようにマルクス主義に同情も共感ももっていないものにとってははなはだ退屈である。
やはり興味の中心は「聖マックス」のほうにある。しかし、その抄録を読んだかぎりでいえば、どうもマルクス=エンゲルスの批判は的外れなのでは、と思ってしまう。というのも、彼らはシュティルナーの説をもっぱら共産主義の観点から批判していて、いわばシュティルナーの影に対して攻撃をしかけているようにみえないこともないからだ。
シュティルナーにとっては、共産主義も自由主義も、人間の人間による支配であるという点では同じだ。ブルジョワが上に立つか、プロレタリアが上に立つかが違うだけで、支配、被支配の構図がいささかも変るわけではない。そういう支配の桎梏を超えて、個人が個人として生きるにはどうすればいいか、ということが彼の問いでなければならない。
マルクスはそんなシュティルナーの本意を知ってか知らずか、彼を宗教的、思弁的だと決めつけて口汚くののしっている。おそらくマルクスはシュティルナーの思想が本質的にアナーキズムに導くものであることを恐れたのではないか。同じくブルジョワを敵としながら、コミュニズムとアナーキズムとはどうも相容れない関係にあるらしい。だから、コミュニズムの見地からマルクスがシュティルナーを批判するのは当然のことだが、それだけではシュティルナーの思想はいささかもぐらつかないだろう。
ところで、「聖マックス」を読みながらおかしくてならなかったのは、マルクスの書きっぷりが、昨今のブログでよく見かける、トラックバックを送って批判的な記事を書くブロガーのやりかたと瓜ふたつなことだ。こういう攻撃的かつ下品なところは、たぶんマルクス一人に帰せられるべきものだろう。エンゲルスはもっと上品な常識人で、だからこそ天才マルクスとうまがあったのではないか。この本の付録にある、マルクスとエンゲルスが別個に書いた文を読むと、なんとなくそんなふうに思えてくる。