スティルネル「唯一者とその所有」


上巻読了(草間平作訳、岩波文庫)。いちおう青帯に分類されているけれども、白帯でもじゅうぶん通用するような本だ。つまり、実践哲学と社会科学との接点に位置しているのがこの本だということができる。

それにしても、これはそうとうに風変りな本だ。そのことは、序にあたる「僕は何物にも無関心だ」を読んだだけでわかるだろう。「何物にも無関心」とあるから、一種のニヒリズムを標榜したものかと思うが、そうではない。これには「わが事を除いては」という但し書きがつけられるべきなのだ。自分のこと以外には無関心──つまり「僕はエゴイストだ」とのっけから堂々と宣言しているようなもので、じっさい、著者のいう「唯一者」とはエゴイスト以外のなにものでもない。

つづく第一篇「人間」において、この自称エゴイストは歴史上の、あるいは観念上のあらゆる体制、制度に異をとなえる。右も左もあったものではない。ここでおもしろいのは、著者がエゴイストを「非人間」として規定していることだ。エゴイストは「人間」ではないばかりでなく、それと対立するものらしい。この括弧つきの「人間」とは、実在する個々の人間のことではなく、歴史的に捏造された観念としての人間だ。冒頭に引かれたブルーノー・バウエルの文句にあるように、「人間」とは十九世紀のヨーロッパで初めて「発見」されたものなのである。

逆説めくけれども、スティルネルの記述を読んでいると、いわゆる人間的なものが非人間的なものに見えてくる。そして非人間的なものこそが真の実在であるかのような錯覚(?)におちいる。この非人間による「人間」の克服は、社会史的にみればプロレタリア革命によっていちおう実現されたといえるだろう。しかし、それですべてが解決したわけではないことは、歴史が証明している。……

さて、この上巻のうち個人的におもしろいと思ったのは、ルーテル主義がいかに深くドイツの精神史の底流になっていたか、ということだ。あらゆるもののうちに「精神」を運びこみ、一切の世俗的なものを聖化しようとするこの急進的な運動は、もしかしたらヒトラー第三帝国にまでその影響を及ぼしていたのでは、などと考えてしまう。