「悪霊」(三)


三冊目読了。そろそろドストエフスキーの本領発揮の感がある。この前の感想で、この小説では中心になるものが故意に隠されているのではないか、というようなことを書いた。おおざっぱな流れからいって、その不在の中心はたぶん反政府的な秘密結社にかかわるものに違いないと見当をつけてこの三冊目を読んでいたら、思いもよらないところでその闇の核とでもいうべきものにぶち当った。「スタヴローギンの告白」のなかの、マトリョーシャ陵辱、致死のエピソードがそれだ。

ドストエフスキーの小説は一般に暗いという定評があるが、このエピソードは暗いというよりひたすら陰惨な感じがする。スタヴローギンの告白を聴いたチーホン僧正はこういう。

「……犯罪はどんな性質のものであろうとも、血が多ければ多いほど、恐怖が多ければ多いほど、それだけ効果が強まる。つまり、絵画的になるものです。ところが、また醜悪な、恥ずべき犯罪があります。いっさいの恐怖を別にして、なんというか、あまりにも美しからぬ犯罪が……」

スタヴローギンをおののかせたのは、貴族主義者としての自分にふさわしくない犯罪そのものの醜悪さだろうか。それもあるかもしれない。しかしそれだけではないような気もする。彼がしょいこんだ罪の重さは、いわば老婆殺しを克服したラスコーリニコフがソーニャを殺した場合に感じるであろうほどの、途方もない性質のものらしいから。

このスタヴローギンの告白があるせいで、この三冊目はひどく重苦しいものになっているが、いっぽうで明るいユーモラスな面もないわけではない。それはおもに知事のレンブケーが登場する場面だ。このレンブケーの一挙手一投足が自分にはおかしくてたまらない。ロシア人(にかぎらず西洋人一般)がかもしだす滑稽感がじつにうまく表現されている。こういう面も、ドストエフスキーの小説の魅力のひとつだろう。