ミシュレ「魔女」上巻

sbiaco2006-08-02



おおざっぱな印象でいえば、ミシュレ歴史学におけるバルザックのような存在だったのではないか。その主著「フランス史」は、「人間喜劇」とパラレルなのではないか。そう思ったのは、彼がこの「魔女」において鮮明に打ち出している観点が、どこまでも民衆的(ブルジョワ的といってもいい)、反カトリック的、フェミニスト的なものだからだ。彼は人間の可能性や自由というものを信じている。その意味ではきわめて十九世紀的だ。人間の可能性をもはや信じられなくなった現代の歴史家からすれば、ひどく大時代的、楽観的にみえることだろう。

しかし、プルーストが出たからといってバルザックが顧みられなくなるわけではないのと同じく、ミシュレがあまりにロマネスクだからといってその価値がなくなるわけではないだろう。歴史と物語とはほんらい同じものだ。ミシュレの本は、この歴史と物語とが不可分だった時代に生まれた、まさに文学作品としかいいようのない度合において、いまなお読みつがれているんだと思う。

この本も、そんな熱いミシュレにふれることができる一冊(篠田浩一郎訳、岩波文庫)。この熱さは、彼が本質的にロマン派だったことからくるものに違いない。ロマン派の重要な要素に、反抗的ということがある。ミシュレにとってサタンやルシファーは、まさに反逆のシンボルだったのではないか。彼はカトリックを「不自然なるもの」とみなして徹底的に糾弾する。そして、それに対する「自然なるもの」の典型を女性のうちに見出して、これを称揚する。

ところで、私はいま古いカトリックに興味と同情とをもっている。だから、ミシュレの一方的なカトリック弾劾にはちょっと異議をとなえたくなる。たしかにカトリック、さらにキリスト教一般は「不自然」かもしれないが、カントの倫理学によれば、「自然」に対立するのは「自由」であって、それは具体的には「意志」としてあらわれる。カトリックの不自然さのなかに、人間の自由意志の発露をみるというのは、そんなに間違ったことではないのではないか。

さらに、いままでルシファー的なもの、反抗的なものにばかり「美」を見出していた結果、自分の生活がおそろしく汚れ果てた、救いのないものになってしまっているという事実がある。この事態をなんとか打開したい。私のカトリックに対する興味は、そういうところからも発しているのだ。

さて、この本にみられるミシュレだが、上にあげた民衆的、反カトリック的、フェミニスト的という要素は、どうしてもシュルレアリスムの領袖ブルトンを想起させる。これは、ミシュレが意外に現代につながる側面をもっていることの証左にならないだろうか。もっとも、シュルレアリスムがすでに過去のものになっているというのなら話は別だが。