ゴーリキー「母」


白水社の「詩的演劇」の最後の作品。これはゴーリキーの小説「母」をもとに、かなり自由な脚色をほどこした舞台用の台本らしい。題材になっているのは革命前夜のロシアの社会主義運動だが、どうしてこれが60年代も終りになってからふたたび取り上げられたのかよくわからない。60年代に高まった政治運動となんらかの関係があるのだろうか。

それはともかくとして、この脚本を読んでいて頭をよぎるのは──またかといわれそうだが──キリシタンの弾圧のことだ。考えてみれば、キリスト教の運動と共産主義のそれとは、見かけほど隔たってはいないのではないか。キリシタンは日本の歴史上はじめての「アカ」だったのかもしれない。なによりもキリシタンにおける「転び」と共産党員の「転向」には、だれがみたって歴然とした類似がある。

それにしても、「どん底」にしろこの「母」にしろ、ゴーリキーはこういう傾向的な作品ばかり書いていたのだろうか。これではまるで自作をプロパガンダの方便に使っているようなものだ。私にはあまり好ましい方法とは思えない。しかし、この劇の最後のほうに、士官の吐くこんなせりふがある。

「わしは、知っとるかね、保守派なのだよ……しかし、ときたま、わしこそもっとも熱狂的な革命家ではなかろうか──そんな気のするときがある。……なぜかって? どいつもこいつも、みんな気の毒になってくるのだ、革命をやるやつ、反動、虐殺をやるやつ、右側にしろ、左側にしろ、醜悪なる行為にうつつをぬかすあの傷ついた、ぱっとしないやつらがな。むなしさで息がつまりそうになってくる……」

これはゴーリキーそのひとの本音ではあるまいか、とふと思った。