ストリンドベリ「夢の劇」


白水社の「現代世界演劇3・詩的演劇」所収(毛利三弥訳)。プロローグにいきなりインドラ(ただし声だけ)とインドラの娘が出てくる。この導入部はすばらしい。インドラの娘は地球におりたって、そこで見知った人間の苦悩を伝えることをインドラに約束する。彼女はいわばこの劇における狂言回しの役どころなのである。

ところで、なぜインドラの娘なのか。この世をすべて苦とみるインド思想を反映させようとしたからか。それもあるかもしれないが、たぶんストリンドベリはこの劇を書く直前に、インド思想に関する本を読んだのだろう。それでなんとなくインドラの娘を出すことを思いついたのではないか。まあいずれにしても、アイデアとしてはわるくない。

しかし、つづく本篇がみるも無残な失敗作なのである。ストリンドベリがみた悪夢を題材にしたものらしいが、悪夢のリアリティを舞台にうつすことはさすがの彼にも無理だったようだ。これが劇ではなくて映画だったら可能だったかもしれない。映画こそは夢のリアリティをもっとも過不足なく表現できる様式だからだ。とはいうものの、作品自体のつまらなさは、たとえこれが映画だったとしても不出来なものだったろうと思わせるに十分だ。

作者は「おぼえがき」で、前に書いた「ダマスクスへ」もまた夢の劇だったという。しかし、それをいうなら、彼の劇は大半が夢の劇ということで片がついてしまう。自然主義的演劇といわれる「令嬢ジュリー」だって、見ようによってはりっぱな夢の劇だ。いや、それどころか、彼の劇のうちで「令嬢ジュリー」ほど悪夢の雰囲気に近づいた作品はないのではないか。この劇がいまだに人気を保っていて、上演回数も飛びぬけて多いのも、たぶんその悪夢性によるところが大きいと思われる。

ストリンドベリの晩年の小さい劇では、「幽霊ソナタ」がいちばんおもしろい。これはドイツ表現主義映画に直結するものだ。次は「ペリカン」あたりか。この「夢の劇」もせめてそれくらいの水準だったらよかったのだが。