アンドレ・ブルトン「超現実主義宣言」


出たときにすぐ買ったものの、なんとなく読む気にならないままほったらかしにしていた本(生田耕作訳、中公文庫)。三つの論文が収められていて、それぞれシュルレアリスムの牧歌時代、闘争時代、諦観時代を画するものになっている。

読みはじめてすぐに気がつくのが、訳文が一種異様な生々しさをもっていることだ。まるでブルトンの霊が訳者にのりうつって口述筆記させているかのようだ。岩波文庫にも「シュルレアリスム宣言」が入っているが、生田訳とくらべると、色青ざめた貧血症のブルトンといった感じで、同じ作品でもこうまで違うかと驚く。どちらが正確かはさておき、運動としてのシュルレアリスムの熱気にふれたいならば、やはり生田訳を選ぶべきだろう。

さて、ブルトンシュルレアリスムをどのようなものとして考えていたのだろうか。「第三宣言〜」からさかのぼって読むと、どうも彼は現実世界とはべつにあるパラレル・ワールドのようなものを想定していたようだ。つまり、現実と平行して走っているもうひとつの見えざる現実、それを「超現実」と名づけたわけだ。

その超現実をかいまみる(あるいはあばき出す)ための方法として考え出されたのが自動筆記で、シュルレアリスムとは基本的に自動筆記のことなのである。ブルトンによれば、この自動筆記を複数の人間が同時に行うことによって、そこに霊媒現象のようなものが生じて、集合的無意識の世界がひらけるという。

無意識の世界の非人称性から現実政治におけるコミュニズムへ移行するのはごく自然ななりゆきだろう。だから、シュルレアリスムが芸術理論にとどまることなく、現実の変革、つまり政治にも介入することになったのは、ふしぎでもなんでもない。文学と政治という、一見対照的にみえるものも、ブルトンにとってはなんら矛盾するものではなく、同じくシュルレアリスムの運動の射程におさまるべきものだった。

とはいうものの、そこからさらに人間を超えた生物の存在を信じるSF的な発想にまで展開していった日には、私なんかはとてもついていけない。ブルトンは探偵小説ぎらいだったらしく、デュパンものを書いたというだけのことでポオを断罪しているくらいだが、SFはけっこう好きだったのではないか、という気がする。SFこそは、ある意味でシュルレアリスムの未来形なのかもしれないと思う。