レオン・パジェス「日本切支丹宗門史」つづき


やっと中巻を読み終えた。キリシタンの迫害はとうとう一般信者だけでなくて、外国人神父たちにも及んできた。この神父たちがまた揃いも揃って腹のすわった剛毅な人々だ。彼らはとろ火で火あぶりにされながらも、天に向かって祈り、信者をはげまし、不退転の意志で信仰をつらぬく。処刑が残虐であればあるほど、彼らの精神的な喜びはいや増しに増すかと思われるばかりだ。このあたりの記述、いったいどこまで信じていいものやら。というのも、パジェスはけっして護教的な歴史家ではないが、彼によればキリスト教(それもカトリック)だけが無条件に正しくて、その他の教え(仏教はもちろんプロテスタントもふくむ)はすべて悪魔の宗教ということになっているからだ。

そういうわけで、多少の美化は免れないとしても、この本からは当時のキリシタンたちの精神の高みのようなものがひしひしと伝わってくる。驚くべきは、この苛烈な迫害の時代に、なおも海外から修道者が秘密裡に渡航して、着実に信者を増やしていることだ。彼らは逃げられるあいだは逃げのびて信者を導き、捕えられればわるびれることなく喜んで殉教の道につく。というよりも、パジェスの記述を信じれば、彼らには殉教による死以外のものははなから眼中にないかのようだ。

ピノラ師の最後の言葉。「汝の魂と帝国の総ての魂を探し救わんとて、我々は渡来したのである。その保証として命を捧げ申す。……我々の中誰かが、苦しがっても驚かないでいただきたい、そうなかったら不思議であろう。一寸の苦痛でもこたえるような弱い柔い肉体しか持たないのに、今、この酷く恐ろしい試煉にあっては、我々は余計感じるのは当然のこと。然し、私は、我が創造主の全能を信頼し奉る。従って、私は、その御栄と我等の神愛を表す一切のものに耐える力を期待する」

これを読めば、ちょっと頭が痛かったり、身体が熱っぽかったりするくらいですぐに精神的にもめげてしまういまのわれわれがいかに脆弱な、甘ったれた人間であるかが痛感されるだろう。

とはいうものの、私もこの本を読みながら、腹がへったといってはパンを食い、寒くなればストーブをいれ、じつにぬくぬくとした環境で彼らの殉教の描写に立ちあっているのだから、われながらいい気なものだと思う。まったく、読書とは偽善の楽しみ以外の何物でもない。どんなに殉教者たちに同情してみても、しょせんは他人事にすぎないからだ。