小林秀雄「モオツァルト」


モーツァルト・イヤーといっても特別なことは起りそうもないので(少なくとも自分にとっては)、名高い小林秀雄のエッセイを読んでみた。案に相違してけっこうおもしろい。小林秀雄にとってモーツァルトがどんな存在なのか、このエッセイを読んだだけではよくわからないのだが、とにかく小林という人は天才しか眼中にないような、いわば批評の(あるいは鑑賞の)王道をゆく人だ。文学でドストエフスキーを選び、絵画でゴッホを選んだように、音楽ではモーツァルトを選んだ、ということだろうか。

このエッセイでは、「疾走する悲しみ」という表現が有名だ。これはてっきり小林秀雄の独創にかかるものだと思っていたが、なんのことはない、アンリ・ゲオンというひとの書いたtristesse allanteを小林流パラフレーズしたものだった。しかも、意外なことに、「疾走する悲しみ」という言葉はこのエッセイには出てこない。「モオツァルトのかなしさは疾走する」とあるばかりだ。それにしても、allanteを「疾走する」と訳すとは、小林秀雄以外のだれにもできない力業だろう。彼はランボーを論評するのと同じ姿勢でモーツァルトに向かっているのだ。じっさい、伝記的な記述以外の部分で、モーツァルトとあるのをぜんぶランボーと読みかえてみても、話のつじつまはちゃんと合ってしまう。

というわけで、このエッセイは彼のランボー論のヴァリエーションとしておもしろく読むことができた。小林秀雄はものごとをあるがままに眺めるのではなく、あるべきように眺める。すべては小林流にねじまげられる。この強引な偏向が彼のエッセイの持ち味だ。ニーチェふうにいえば、「強者の光学」といってもいいだろう。彼の批評のおもしろさも弱点もそこにある。