グレン・グールド「エクスタシス」

sbiaco2006-03-04



そのモグラのような風貌とあり方とが災いして、いままで聴く気にならなかったグールドだが、レンタル屋にDVDが置いてあったので借りてみた。プログラムのほとんどが、彼のひととなりを語る複数の証人の談話にあてられていて、彼の演奏そのものは断片的に紹介されているだけだ。ドキュメンタリーふうのビデオではこの手の作り方が非常に多い。たぶん著作権その他の理由で演奏シーンを長く映すことは禁じられているのだろう。

さて、今回はじめて彼の演奏に接したわけだが、あまりにも想像どおりの音だったのに驚いた。思えばグールド伝説の浸透性にはおそるべきものがある。私のように彼についてまるで無知なものにも、ある一定のグールド像が植えつけられているのだ。その虚像と、ビデオにみられる実像(?)とがほぼ完全に一致してしまったということは、われわれにとってグールドの演奏を聴くことが一種のデジャヴュ体験にほかならないことを明かしている。

グールドは若いころ、作曲家を目指したことがあったらしいが、そのことは後年の彼の「引きこもり」に大きな影響を及ぼしていると思う。というのも、彼は「演奏」と「音楽(あるいは作曲)」との乖離(裂け目といってもいい)をはっきりと意識した演奏者=音楽家だったからだ。演奏会は彼のなかの演奏者だけを肥大化させるものであって、音楽家(作曲家)としての彼をひどい窮地に追いやっていたのに違いない。かくて、彼は演奏会を廃し、その後半生はもっぱら両者のギャップを埋める作業に費やされた。

しかし、この作業はついに完成しないままに終ったのではないか、と思われる。それはいわば「絶対の探求」であって、はじめから不可能を宣告されたものだからだ。ランボーは「言葉の錬金術師」を自称したが、グールドには「音の錬金術師」という呼び名がふさわしい。彼にはひどく遅れてきたルネサンス人といった面影がある。