和辻哲郎「鎖国」


和辻哲郎鎖国」(岩波文庫)上巻読了。

和辻の本を読むのはこれがはじめてだ。彼の本をいままで読む気にならなかったのがふしぎなくらいだが、「鎖国」にしろ「風土」にしろ、題名のインパクトが弱すぎるのがその原因のひとつであったことは否めない。義兄弟である林達夫の題名のつけかたのうまさとは対照的だ。

というわけで、積読のまま放っておいたものを取り出して読んでみたのだが、のっけからその構想の気宇壮大なのに驚いた。なにしろこの上巻のほとんどを占めているのが、いわゆる「大航海時代」のヨーロッパの事蹟なのである。とくにコルテスとピサロによるメキシコおよびインカ帝国の掠奪の描写は圧巻で、これを読めば、キリスト教という一神教が史上最強最悪のものだったという意見もすんなりと受け入れられる。いまだかつてここまで徹底的な一文化の破壊というのは行われたことがなかった。これを読んでいると、メキシコやインカ帝国の人々に対する同情とともに、当時のスペイン人に対する怒りがふつふつと湧き起ってくるのを抑えることができないが、著者はいっさい私情をまじえることなく、ただそれらの事蹟をたんたんと伝えている。まずこの筆致がすばらしい。

というのも、著者はこれらスペイン人による暴虐もまた航海者ヘンリー王子の「精神」に端を発するものとして、その歴史的な必然性を(それが正当なものであるかどうかはひとまず問わずに)認める立場にあるからだ。じっさい、和辻は航海者ヘンリーをひどく高く買っている。この、故国から一歩も離れることなく、もちろん自分では海上に乗り出したこともなかった「航海者」の奇妙なあり方には、和辻ならずともひとの心をひきつけるなにかがある。それはもろもろの現象を精神の歴史、つまり精神史に求める立場とも呼応するものにちがいない。

上巻の最後にいたって、ようやくポルトガル人宣教師たちによる日本での布教活動のことが出てくるが、同じくヘンリー王子の精神を継承するものだといっても、スペイン人による新大陸の掠奪と、ポルトガル人による日本での布教とでは天と地といってもいいくらいの違いがある。キリスト教精神は、新大陸ではその最悪の面を、日本ではその最良の面をあらわしているように見えるからだ。その理由のひとつに、日本という国の物質的な貧しさをあげることができるだろう。と同時に、その精神的な豊かさをもあげることができるだろう。それが、当時の宣教師たちをして、この国の人間はあなどれないという印象をいだかしめたのに違いない。

日本人は、室町時代の後期にいたって、当時の尖端的なヨーロッパ人とも対等にわたりあえるだけの「心術」をもっていたのだ。それがその後、どうして「鎖国」などという閉鎖的な制度へと萎縮してしまったのだろうか。そのあたりのことは、つづく下巻を読んでみないとはっきりしたことはわからない。

とはいうものの、日本人の本質的に閉鎖的な心情を知るものにとっては、当時の日本人の開かれた心性のほうがよほどふしぎに思われる。後期室町時代というのは、そういう日本人の可能性とその限界とを知る上にも重要な時代だということができるだろう。