岡田暁生「西洋音楽史──「クラシック」の黄昏」


岡田暁生西洋音楽史」(中公新書)読了。

よく「○○史」といった題の本があるが、その場合の歴史とは、せいぜいがその著者にとっての歴史であって、けっして客観的かつ唯一無二のものではない。歴史家が十人いたら、十の異なった歴史がある。だから、歴史のおもしろさは歴史そのものではなく、むしろそれを書く個人の力量に左右されることが多いといえるだろう。そして、岡田氏はそれだけの力量をもった書き手なのである。

私はつねづね、岡田氏は音楽ジャーナリズムにおける鹿島茂のような存在になりうる人だと思っている。じっさいこの両者、その関心のあり方や表現の仕方においてじつによく似ているのだ。前に鹿島氏について書いた「おもりろくて物足りない」ところまで両者に共通している。これを要するに、彼らは「新書的人格」であるといえるかもしれない。「新書的人格」とは、新書という、ジャーナリズムとアカデミズムとが微妙に交錯する場で、その最良の資質を発揮できるような書き手のことだ。

この本の特色として、記述のはしばしに著者にとっての「名演」がさりげなく紹介されていることがあげられる。これらの「名演」は、本書全体の流れのなかで、いくつかの結節点をかたちづくるものだ。だから、読者はこれらのCDを聴くことで、著者の主張をじっさいに耳で確認することができる。これは楽しい期待にみちた作業ではなかろうか。たとえ結果として、著者の意見とは別の地平に連れ出されることがあるとしても。

つまり、ここに述べられた歴史記述は、じっさいの音楽体験に反映させてみてはじめて意味をもつものだといえるだろう。たぶん著者もそういうことを念頭においてこの本を書いたと思われる。つまりこれは著者の音楽体験を歴史という時間軸にそって整理したものであると同時に、読者をよりいっそう広大な音楽空間へといざなうものになっている。けだし歴史とは、だれもがその中心になるうる空間のことなのだから。