フェリーニ「サテリコン」


なんとなく成行きでDVDを買ってしまう。千円を切るとはずいぶん安い。

これは大昔に一度見たことがあるが、今回あらためて見直してみて、思っていた以上に病んだ映画であることに驚いた。フェリーニの病的な想像力がマックスに達したときの映画だと思われる。これには原作者(?)のペトロニウスもびっくりだろう。この狂った作品を前にしては、ホドロフスキーの「エル・トポ」すらまっとうな、優等生的作品にみえてくる。

いくつか気になった点を書いておくと──

  • まず冒頭の奇怪な階段状の建築物。こんなものは古代ローマにもありはしない。おそらくピラネージの「牢獄」にヒントを得て構想されたものだと思われるが、ほかにもいろんなマニエリスム画家(パルミジャニーノ、モンス・デシデリオ、ロッソ・フィオレンティーノなど)が影を落としているかもしれない。そのあたりのことを、たとえば高山宏先生にきいてみたいものだ。
  • ギトン役の少年は、かつては魂をとろかすような美少年だと思ったが、いま見ると存外平凡な顔をしている。おまけに表情や演技は素人丸出しだし……これじゃタッジオ少年に勝てっこない。
  • トリマルキオーの饗宴で、豚の丸焼きの腹を割ると腸詰やらモツの煮込みやらがどっと溢れ出てくるシーン。これには思わず吐き気をもよおした。悪趣味にもほどがある。
  • 悪趣味といえば、冒頭の芝居で罪人役の男の腕が叩き切られるところ。お芝居でほんとに腕を切ってどうする、と思うが、それを見ている観客が眉ひとつ動かさないのもすごい。まあコロセウムでほんものの殺し合いを見て喜んでいた人々だからなあ……
  • 悪趣味といえばもうひとつ、なんでこんなに身体障害者(あるいは畸形)がいっぱい出てくるのか。きわめつけは「神の子」なる両性具有者だが、これもほんもののふたなりを使っているようにみえる。フェリーニさん、あんたどこまで病んでるんだ……
  • まじろぎも身じろぎもせず突っ立って傍観しているマネキンのような人々。フェリーニ作品ではよく見かける絵だが、これもおそらくはマニエリスム趣味のあらわれだろう。
  • 物語の筋とは無関係に出てくる「巨怪なるもの」の送迎。ばかでかい顔のオブジェや、意味不明の乗り物の装飾、はては海から吊り上げた鯨の死骸など。
  • ラストはエウモルプスの屍骸を──彼の遺志に従って──むしゃむしゃ食べる無表情なおっさんどもを写して終りという、どこまでも悪趣味で病的で不愉快なゲテモノ映画であった。


私の評価。★★★★★

バッハ「オルゲルビュヒライン」


中学のころから気がかりだったのをいまごろ聴く(ヴァルヒャ「オルガン全集」、モノラル録音)。全体的にわるくはないが、一曲目がよすぎてあとの曲がかすんでしまう。あとの曲といっても44曲もあるので、ほとんど全部がかすんでいるようなものだが……

一曲目の題名は「いざ来たれ、異教徒の救い主よ」である。しかしこれはどう聴いてもそんな勇ましい感じの曲ではない。これを聴いているとビザンチンの薄明という言葉を思い出す。それと同時にモローの描くサロメの絵が頭に浮んでくる。



もちろんバッハがビザンチンの薄明やモローの絵を知っていたはずはないから、この私の印象は分析的なものではない。こうして鑑賞にあたってたえず総合判断が入り込んでくるのが音楽というものの宿命であり、その豊穣のしるしであり、かつは批評の堕落を促すものである。

批評の堕落、つまり音楽についてはどんなに無茶なことをいっても許される、ということ。

そういうところから、プラーツは音楽をムネモシュネ(記憶の女神)の領土からきっぱりと追放する。しかし翻って思うに、音楽ほど記憶と緊密に結びつくものがあるだろうか。音楽にはどこか匂いと似たところがある。

視覚は触覚と結びつき、聴覚は嗅覚と結びつく、そんな仮説が成り立つかもしれない。

マリオ・プラーツ「ムネモシュネ」


かつて美術出版社から出た訳本を不可として高山宏が新たに訳しなおしたもの(ありな書房、1999年)。しかしこれをもって邦訳決定版とするのならもう少し校正をしっかりしてほしかったと思う。ありがちな変換ミスが散見するのは残念だ。「名ずける」とかの表記もいただけない。

それはそれとして、この本はプラーツの著作のうちではわりと軽めのものではないかと思う。そのライトモチーフになっているのは、ホラティウスの「詩は絵の如くに(ut pictura poesis)」と、ケオスのシモニデスの言とされる「絵はもの言わぬ詩、詩は語る絵(pittura parlante)」である。ここから画文一如(Ekphrasis)なる概念が出てくる。それをもとに「文学と視覚芸術との間の平行現象」をルネサンスから現代まで(!)語りつくしたのが本書である。

私がおもしろいと思ったのは、たとえば「エドガー・ドガの1861年の作品《セミラミスの都市計画》は「不信の停止(suspension of disbelief)」をかちとるのにもっと成功している」という記述。この「不信の停止」なる言葉はコールリッジの「ビオグラフィア・リテラリア」に出ているもので、ありえない、ばかばかしいという感覚をとりあえずは括弧に入れとけ、という意味である。おもに超現実を描いた詩について使われる用語だが、それをドガの絵に適用するところに著者の非凡な着想をかいまみる思いがする。

あと、贋作を論じた部分もおもしろかった。絵という、ほぼ万人の目にひとしく映るであろうようなものでも、その「見方」というか「見え方」は一人一人ちがうし、時代によっても変化する。つまりある時代に自明なものが他の時代には自明ならず、逆もまた真なり。そこから引き出される帰結として、いかなる完璧な贋作者といえども、彼の生きた時代の書跡(ductus)を免れないこと、すなわちいかなる完璧な贋作もその時代の刻印を帯びずにはすまされないこと。

これを読んで、いままで何べん読んでも分らなかったボルヘスの「ピエール・メナール」の意味がようやく腑に落ちた。


(追記)
あまり関係ないけど、いまウィキペディア高山宏の項を読んでいたら、フランチェスコ・コロンナの「ポリフィルス狂恋夢」が氏の訳で今年(もうあと少ししかないが)出るらしい。かつてツイッターで「イタリア文学者は早いことしないと英文学者か仏文学者にもっていかれちゃうよ」とつぶやいたが、それが現実になろうとしている。

ポアンカレ「科学と方法」


ポオの「ユリイカ」と並行して読んでいたもの(吉田洋一訳、岩波文庫)。じつはこっちのほうを先に読了したのだが、感想が書きにくくてほうっていた。まあモノがモノだけに私が感想を書く必要もないのだが。

ポアンカレについてはとくに関心があったわけではない。数年前ポアンカレ予想で盛り上ったときも、数学好きの人からいろいろと話を聞かされたが、たいていは上の空で聞き流していた。ところが先日古本屋の棚でこの本をみつけてぱらぱらページを繰ってみて、これはやばいと思った。その文章がまったく巨匠と呼ぶにふさわしい筆致で書かれていたからだ。数学者でこんなすばらしい文を書く人がいたのか、というのがまず驚きだった。

内容はといえば、100パーセント理解できたわけではないが、高校程度の数学と物理の知識があればなんとかついていける。私はこれを読みながら、高校のころの授業のことを思い出していた。そしてあのころにこの本を読んでいたら、おそらく授業を受ける姿勢もまったく違ったものになっていただろうな、と思った。高校教師はこういう本のこともちょっとは授業中に生徒に教えてやるべきだ、きみたちのやっている勉強の先にはこういう世界が開けているんだよ、ということをさりげなく分らせてやるのも有効な指導の一つではないかと思うのだが。

それはともかくとして、私がとくに気になったのは、こういうすばらしい業績をあげた人々がほとんどすべてヨーロッパ人であることだ。アジア人は何をしとるんじゃい、と思うが、それに関連して著者はこう書いている、「げにも、ギリシャ人が蛮人を征服し、ギリシャ思想の相続者たるヨーロッパが世界に雄視するのは、蛮人が感官の刺戟のみにとどまる、けばけばしい色と太鼓の騒音とを好むに反し、ギリシャ人が感覚的美のうちに潜む知的美を愛したから、またこの知的美こそ知性を確実な強いものたらしめるものであるからにほかならないのである」と。

けばけばしい色と太鼓の音を好む私をして地べたに這いつくばわせるに十分な言葉だ。

ポオ「ユリイカ」


細切れの時間をなんとかやりくりしつつ読了。ポオの最晩年の著作とのことだが、もうこのころになるとかつての「印象と効果」の理論家ポオは影をひそめて、その代りに彼の生地である中二的心性が全開になっている。中二的といっても貶しているのではない、むしろこれは最大限の褒め言葉のつもりなのである。彼はアルコール中毒で心身ともにぼろぼろになりながらも、少年のころに胚胎した夢を終生見失うことはなかった。そういう見地からすると、「アル・アーラーフ」で始まった彼の作家としての軌跡が「ユリイカ」に収斂していくさまは壮観としかいいようがない。

この作品を、詩の側からする科学への真向勝負と見ることもできるだろう。しかしポオはおそらく科学を真正の敵とはみなしていない。それどころか、科学の開示する美にはことのほか敏感だったと思わざるをえない。科学の開示する美、すなわち「各部分の調和ある排列から出づるところの、また純粋な知性がつかみ得るところの、かのいっそう内面的な美」(ポアンカレ)である。

プラトンがその「国家篇」を「エルの神話」をもって閉じたように、ポオもまた彼の宇宙論を一種の神話で締めくくっている。この部分にポオの詩と真実との渾然たる(もしくは混沌たる)調和を読み取りたいと思う。

ストリンドベリ「死の舞踏」


アマゾンからストリンドベリの「死の舞踏」の紹介メールがくる。なんでいまごろ私のところへ「死の舞踏」への招待が? それにはアマゾンなりの理由があるんだろうが、それはともかくとしてこの戯曲、大昔に読んだ記憶をたどってみると、主人公がなんとなくサイコパス臭かったような気がする。それならいま読み直す価値があるのではないか、と思って白水社の「ストリンドベリ名作集」を取り出して読んでみた。

案の定、主人公のエドガーはまごうかたなきサイコパスである。こんなところにサンプルが転がっていたか、と嬉しくなったが、しかしエドガーの性格や行動は、「死の舞踏」をサイコパス演劇として位置づけるにはちと弱い。なんといっても死にかけの老人なので、いくら「悪魔」とか「吸血鬼」とか呼ばれても、それにふさわしいだけのデモーニッシュな迫力がないのが決定的な弱点だ。

しかしこの本を読みながら気がついたのだが、吸血鬼というのは、数ある化け物のうちでも飛びぬけてサイコパス度が高いのではないか。狼男も、フランケンシュタインの怪物も、ミイラ男も、よくよく考えてみれば禽獣に類するような知能の低い生き物で、それ自体としてはあまり怖くない、少なくとも形而上的恐怖の対象ではない。それに比べると、吸血鬼は存在そのものが「悪」の問題と不可分に結びついているので、形而上的にも恐ろしい化け物になっているように思う。

とはいうものの、いまでは吸血鬼イコール悪の化身という図式があまりに一般化しているので、もう吸血鬼で怖がらせるのは無理なんじゃないかという気がする。吸血鬼にかぎらず、古典的な化け物はパロディという形式で細々と生きながらえるのが関の山だろう。私もいまさらそういったものを読もうとは思わない。唯一の例外はプレストのヴァーニー*1

そういえば、ストリンドベリは当初この戯曲に「吸血鬼」という題をつけるつもりだったらしい。「吸血鬼」ではなく「死の舞踏」にしたのは正解だったと思う、これだってかなり羊頭狗肉だが。

*1:ネットに英文のテクストはあるが、これを読み通すのはかなりきつい。ダイジェスト版ですますのもくやしいし、だれか翻訳してくれないかな、私が生きているうちに

倒逆睡眠法


ちょっと時間に余裕ができたなかな、と思ったとたんに過酷な業務命令が下って、またしても魚が水面であぎとうような生活に戻ってしまった。もうこの状態がおれにとっての常態であって、余裕ができるなんてのはよほどの僥倖だと思っていたほうがいいのかもしれない。それでも社内では余裕のありそうな顔だけはしている。たんなる強がりだけれども、それがないとほんとペシャンコになってしまいそうなのだ。一種の断熱膨張で、じっさいひどく疲れるんだが……

まあいい、日記でも書いて落ち着こう。

仕事のシフトが変るにつれて、睡眠時間も変える必要がでてきた。つまりいつもより早寝しなくちゃならないんだが、なかなかこれがむつかしい。長年の習慣みたいなものがあって、一定の時間にならないと寝付けないような体質になってしまっているらしい。とはいうものの、次の日のことを考えると眠らないわけにはいかないので、なんとか早く眠る方法はないか、と思っていろいろ試してみたが、いまのところ次の方法がいいようだ。

まず、寝よう寝ようとあせっていると、眠気というのはまずこないこと。理由はよくわからないが、おそらく心理的に緊張の状態にあるために目がさえてしまうんだろう。

それなら、寝ようと思わずに、寝ちゃいけない、朝まで眠らずこうやって布団のなかで待機してなくちゃならない、というふうに考えたらどうか。これもリアリティがないとうまくいかないので、なにか夜通し待機の状態にいなくてはならない架空の口実をつくってみる。そして眠気よ、来るな、おれは明日の朝まで起きてなくちゃいけないんだ、と自分にいいきかせていると……

……知らないうちに眠っている。これはほんとのことだ。人それぞれ向き不向きがあるから万人にすすめるわけにはいかないが、夜寝られなくて困っている人の参考になれば幸いである。

だいたい人生というのは、こうしたい、こうなればいいと思っているとその逆のことが起る。それならば、こうなりたくないと思っていることを祈念すればもとの希望がかなうのか、といえばそううまくは行かないようだ。しかし、睡眠に関してはこの方法(倒逆祈願法とでも名づくべきか)はけっこう有効だと思う。